「地図と写真で見る日本の空襲」展 を見て
12月レポート   1組 2組 4組 6組
1 ●行った日12月21日(水)
●会場にいた時間 約65分
●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと 等など

 初めに戦時中の様々な地図の展示がありましたが、まずは自分の今住んでいる地域をつい探してしまいました。自分の家の場所が当時は海の中にあって、海岸線も現在とは大きく異なるということがよく分かりました。戦災地区を表した地図や被害者数を表した地図などからは、東京は空襲だけで相当大きな被害を受けていたということを知りました。一度で10万人もの人々が命を落とすという程の、大規模な空襲があったことには正直驚きました。地図は非常に便利なものであるけれども、戦争中は爆撃の目標を示したり、被災状況を表したりするのにも使われていたということを改めて考えると、とても複雑な思いがします。
 展示の中で特に印象に残ったのは、ジョー・オダネルさんの写真が展示されている箇所でした。それまでの展示では友達と互いに感想などを言い合っていたのに、この写真の展示のところでは言葉を失い、ただひたすら写真に見入ってしまいました。当時の悲惨な被害の様子を鮮明に写し出している写真と、そこに添えられた言葉の一つ一つはとても衝撃的で、心に深く突き刺さるものがありました。投下される爆弾、爆撃後の無残な風景、被害を受けた子供たち、瓦礫に埋まる人骨・・・その全てが自分の住んでいる国で過去に現実としてあったことだというのは、とても信じられない気持ちになります。なぜ戦争をしなくてはならなかったのか強く疑問に感じ、また、このようのことは二度と起こしてはいけないと痛感しました。
 最後のアジアやアメリカなど太平洋周辺の巨大地図(写真)は、細かい地域まで見ることができ、案外面白かったです。また、オセアニアの国々は意外と大きいんだなとも感じました。 
2  1階には東京への空襲の資料があった。
身近な地名がたくさんあったし、自分の住んでいる所の資料もあったので、空襲の恐ろしさが一層感じられた気がした。
 僕の住んでいる三鷹や吉祥寺あたりはあまり死者がいなかったけれど、ポツポツと死者のたくさん出ている場所があった。それはきっと人口の多いところや、工場などがたくさんあり、集中的に狙われたところなんだなと感じた。
 2階には日本各地の状況や資料があった。特に広島の写真は、前と後とで全然違っていて驚いた。
 爆心地を中心に周りの建築物がほとんどなくなっていた。爆心地はどうなっているのかなと思った。
同じように原爆を投下された長崎は広島ほど被害が大きくないように感じた。これはきっと長崎のほうが爆心地の周りに山などがあって、爆風がさえぎられたせいだと思った。
 順路を通ってまた1階に下りると、床一面に大きな世界地図があった。
 琵琶湖の大きさにちょっと驚いた。赤道上を歩いたりしてはしゃぎすぎて壁にあった資料を見るのを忘れました…すいません。
3  街の爆撃前と爆撃後の上空写真が何枚もあったが、それらは爆撃範囲に驚くものであって、上空から撮っただけあって建物一戸一戸が小さく、地上の様子があまり分からなかった。しかし、昔の地図を見た限り、親戚の家や自分の家も爆撃されたと思うと、生き残れたかどうか少しばかり不安になった。また、体育館みたいなところの一階には20万分の一の世界地図があり、そこで年配の人が二、三人で日本の上に立って、日米両軍の作戦や進軍方向などを話し合っていた。教科書に載っていないような言葉ばかりで、そういう知識も戦争を話す上では必要だと思った。
 また、そこの壁にはジョー・オダネルの写真集があり、中学の時に少しだけやった、死んだ弟を背負って火葬場の前に立つ九歳位の子の写真があったり、これは地上の写真なので建物の壊れ具合がリアルにわかったり、背中がボロボロになった写真などがあり、背筋が凍るものもあった。何の前触れもなしに一瞬で何万人もの人があんな風になってしまうし、何かの記述にあったが、一瞬で地面の温度が太陽の表面温度より熱くなってしまうのには驚いたし、それと同時に、要求を飲ませるために人に爆撃するのではなく近海に落とすなど使い方を考えて欲しいと思った。また、今は技術も進歩したので次に戦争が起きたら核で死ぬことが不思議ではないと思った。
4 ●行った日:12月24日(土) 
●会場にいた時間:約60分
●感想

 「米国国立公文書館所蔵の航空写真」に注目すると、同じ空襲目標である日本各地の、空襲前・中・後の航空写真があった。米軍が具体的な目的を持って空襲を行い、その成果を調べようとしていたのが分かる。同じ場所の航空写真を3枚も撮られていたとなると、日本上空の制空権は日本にあるとはいえない状況だったに違いないと思う。
 また、横須賀基地が無傷である写真の傍らに、米軍の戦後を見据えた温存策によるものとあった。このことからも、日本軍と、先の先まで読んで戦争をしていた米軍との力の差を感じる。

 それでも日本軍の士気を保っていたのは一つに国民意識の高さにあると思う。パンフレットの南善一氏の『日記』に、「…二千六百四年…ノ国民ハ…」とあるように、当時の日本は開国2600年を迎えキリスト教よりも歴史が深い”神国”とされ、国中に祭りに乗じて宣伝された。これに加え、パンフレットに載っている『時局防空必携』や「戦陣訓」を読むといかにも日本人の国民意識が駆り立てられるような気がしてくる。これらが学校で教育されていたことを考えると、当時の大多数の人が戦争に精力を注ごうとした気持ちがわかってくる。

 これらを踏まえてもう一度空襲中の航空写真を見てみると、これぐらい家や道路が小さく見えるほどの高さにいると、真下では何十、何百人もの人が死んだり、傷ついたり、ひどい状態になっているのが見えなくなってしまうなと思った。だから米軍の兵士の人にとっては日本人の、戦争に臨む意識も空爆を受けるショックも知らなかったわけだし、だからこそ今にも残る日本の傷跡をつくったことになったんだと思った。
5  ☆見た展示品の中でも、興味を持ったのが、「豊川海軍工廠」と「B29による最初の日本本土爆撃」と「東太平洋地図」でした。「豊川海軍工廠」は米軍が撮影した航空写真でB29と、日本の本土をB29の更に上からF13で撮影した物だ。日本本土が壊滅しているのが良く分り、目を引いた写真だった。「B29による最初の日本本土爆撃」は映像と南喜一氏の日記が印象的でした。米軍は八幡製鉄所のある北九州を「日本のピッツバーグ」と呼び、最初の爆撃目標とした。南喜一氏の日記では「これからが本格的に来襲にくる事は確実である」と予想されていた。南喜一氏は空襲されたことがよほどショックでこのようなことを書いたのだろう。

 「東太平洋地図」は、日本統制地図株式会社が昭和17年7月に発行した北緯15度以北北アジア大陸東岸からアメリカ大陸西岸までの地図である。結構精密に書かれていて、戦争の作戦などをたてるときに使ったのではないかと思った。展示してある写真など1枚1枚がとても印象的かつ、衝撃的でした。空襲で建物などは当たり前の様に崩壊し、当たり一面の焼け野原になっていて、残っている物はなにもない。これは今じゃとても考えられない物で、現代人のほとんどは戦争とは無関係な人生を送っている。この企画はそんな人達に再度戦争の辛さを教える物だろう。
6 ●行った日 12月22日 
●会場にいた時間(60−10)分

「爆弾の投下前と投下後で、同じ場所を撮った空中写真に目を惹かれた(他、空襲前と空襲後など)。 爆弾投下前は普通の町並みであるのに、投下後はいくつかの建物しか残っていなかった。
 また、改めて恐ろしさを実感したのは原爆の投下前と投下後の写真(広島)で、かなり広範囲を写していたのに、(確か)その写真の多くの部分は何もなくなっていた。たった一つの爆弾に全てを吹き飛ばしてしまう力があるんだ、と思うと『人間は進化しすぎたのだろう』と思ったり『原爆を起爆剤にした水爆の威力は計り知れない』と思った。
 「ちなみに長崎の原爆投下前と投下後の写真では、広島ほどではなかったが、やはり爆心地を中心としたそれなりの大きさの円の範囲では何も残ってないようだった。」
 他にもいろいろ見るものはあったが、何よりも感動したのは、超特大世界地図である。展示会を主催した人には申し訳ないが、世界地図があったフロアで1番良かったのはこれだと思う(特に学ぶことはなかったが)。
 話を元に戻して、最後にまとめ。『戦争はやめよう』とか言っている人がいるが、それは人間が生きている限り無理なことであって、大切なのは、多くの人が戦争の恐ろしさを少しでも知り、自分自身の意見を持って、社会の趨勢に左右されないようにすべき、と考えた(でも戦争をしない、という考え方の方が理想的ではある)。」
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 会場に入って最初に印象に残ったものは昭和20310日の東京大空襲の被災地図だった。僕が「日本で起こった原爆」と言われて真っ先に思い出すのは広島の原爆の事だが東京大空襲もすごい事件だったと思わされた。又、写真には爆弾を投下している最中を写しているものがあり、とても驚いた。なぜならこれから大勢の人たちが死んでいくと言うのによく写真なんか撮れたな、と感じたからだ。
   他にも広島や長崎の空襲後の地図を見た。よく大人たちや漫画から原爆の事を聞いた(見た)が地図を見るとよりいっそうひどさがわかった。
   又フロア一面にしかれた世界地図には驚かされた。あんなに大きい地図を見たのは多分人生で初めてだと思う。オーバーな言い方かもしれないけど、正直言ってとても感動した。
   今回の展示会では改めて戦争の厳しさを感じさせてくれるもの、そして「百聞は一見にしかず」の意味を教えてくれるものだった。

10 ●行った日 12月21日(水)    ○提出12月31日(土)
●会場にいた時間 約90分
●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと

 この展示で戦争の残酷さや悲惨さをまざまざと見せつけられたような気がした。
 まず、東京都区部の空襲の写真を見た。空襲を受けた地域が東京地域の地図に示されているものだった。あまり東京の土地勘がない僕だが、その広さはしっかりとわかった。
 次に、日本全国主要都市の戦況の地図を見て。僕の家のある地域の様子を知ることができた。最寄り駅周辺が主に空襲を受けていたことが分かった。今までより戦争が身近に感じられたような気がする。ヒロシマ・ナガサキの写真もあって、すさまじい威力が良くわかった。
このフロアーには米軍が攻撃した日本の基地や軍事工場とその際に失われた両軍の兵器の数が示されていたデータがあった。日本の戦闘機が100も200も撃沈されているのに米軍の戦闘機は10機ほどしか破壊されていないという戦いがたくさんあったことに衝撃を受けた。それほどまでに差が出ていたのに戦争をやめられなかったのは悲しいことだと思う。
 そして、ジョー・オダネルの写真。戦争のありのままを写した写真だったと思う。中には目を背けたくなるようなものもあった。
 あと、当時の日本やアメリカなどが作成したアジア地域の地図が展示されていた。一つ一つの地域が詳しく調べられていた。
 最後に戦争の光景を写したビデオがあったが、結構衝撃的な映像が多かった。
今回の展示では、よくわかりにくい戦争の被害があった場所が具体的に分かったので非常にためになったと思う。
11  正直に言うと僕には詳しいことはわかりませんでした。当然ながら予備知識と呼べるものもほとんど ない有様で、見ていて感じたことといえばどれくらいの規模で戦争が行われたのかという悲惨さと、 一般の人にはいろいろ隠されていたのだろうということ、そして戦争は世界各地で起きていたのだと いうことです。

 当たり前のことといったら当たり前なのですが、どうしても僕達は自分達視点で物事 を考えてしまいます。決して間違ったことではないと思いますがどうしても世界が狭まってしまい、 自分達の被害しか見ることができていない気がしました。

 今回の展覧会を見て気づいたことの中でも っとも嬉しかったことは世界の見方が広まったことです。確かに日本は原子爆弾を落とされた唯一の 国です。ここの点は悲しむべきことだと思います、しかしほかの地域でも酷い被害を負った国は五万 とあります。自分たちのことだけを見ず、世界に目を向ける必要が僕たち日本人はあるのではないか と思いました。
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13  「空襲」というものは、我々日本人にとっては、かなり有名な単語であろうと思う。しかしながら、今日我々は、「空襲」をどのように認識しているのだろうか。つまり、最も身近な「空襲」のサンプルであるこの国ではなく、他の国の問題であったと考えてはいないだろうか。(実際最近行われた空襲は他の国ばかりだが。)
 今、空襲の代名詞として有名なのはアメリカである。彼の国は、第二次世界大戦の空襲の成功に慢心し、その後の戦いでことあるごとに空襲を行う危険な国となった。私が、この特別展に行くにあたって最も興味を持ったのが空襲というものは、かつての第二次世界大戦のような状況で行われた場合どれほどの効果をもたらすのか。と言う点と「超空の要塞」B29をさらに上空から撮影したと言う写真についてである。
 結果として、確かに今より遥かに性能において劣っていた状態でもこれほどの効果を上げたのだから、アメリカが空襲を繰り返すのも無理は無い話しだと思うにいたった。私は別に戦争についてとやかく言うつもりは無いが、ベトナム戦争のような、マナーに反した空襲やめた方が良いとも感じた。結局、私は日本の空襲自体には興味が無いのだと実感した。 
14  振り返ってみて一番印象に残っているのは、体育館一面の大きな世界地図。そこでは太平洋戦争のときの戦場を探して日付を追って歩いた。あんなに大きな地図は生まれて初めてなので、しばし本題を忘れてはしゃいでいた。本題に最も関係している空襲。ビフォーアフターがとても印象的だった。写真を見ると空襲では建物が粉々になっているのがよくわかる。それと同時にそこにいた人々も同じダメージを受けていることになる。空襲では建物だけでなく人体も破壊しているんだなと、つくづく実感した。現在、日本のメディアは日本の戦争での被害について数多くとりあげている。今回の展示を見て、日本が他の国にどのような被害を与えたかも知りたい。
15 ●行った日 12月21日(水)
●会場にいた時間 約60分
●感想

 この写真展の写真はほとんど地図で、イメージしていた感じとはぜんぜん違った。イメージとしては、もっと空襲の悲惨さをリアルに、人の写真などを使って伝えていくのかと思っていた。中学のときにも原爆関係の話しでジョー・オダネルさんは出てきたが、この人はもっと人の写真を写していたと思う。そういう意味ではこの写真展には少し期待を裏切られた形になった。
 でも、地図や写真はシンプルに並べられてあってとても見やすかった。そして、空襲の大きさや強さを十分に知ることができた。空襲は一度でなく、同じところに二度、三度と波状攻撃するということも知った。もう少し地図や写真に対するコメントがあっても良かったと思うし、そういう考察を入れることによって、他の地図との関連性も見えてきて、全体がもっと見やすくなったと思う。
 僕は広島の平和記念館で原爆の被害というものをたくさんリアルな写真を目の当たりにして痛感した。今回の展示会では、また違った角度から原爆を知ることが出来て良かった。
16 ●行った日  12月21日(水)
●会場にいた時間  約90分
●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと 等など

 太平洋戦争という出来事で被害を受けたのは広島と長崎という印象が強いが、展示室に入って最初に、東京も空襲による大きな被害をうけたのだな、と感じた。飛行機工場の被害を撮影した写真が一番印象に残っているが、建物はあとかたもなく崩れていて、凄惨なものだった。東京大空襲のあとの復旧の早さにも驚いた。空襲からわずかの間の道路や鉄道が整備された、ということを表す地図もあり、こちらも興味深かった。
 広島・長崎については各地域ごとの、被害の詳細が展示されていた。広島の、原爆投下直前と投下直後の写真では、原爆が一瞬にして広島を焼き尽くしたということがよく分かった。原爆、という核兵器の恐ろしさを感じざるを得なかった。
 今の世の中から戦争がなくなるかどうかは分からないが、核の力だけは使ってはならないと思う。人間は科学を進歩させとんでもないものを作ってしまったように思う。「核兵器はつくらず、持たず、持ち込ませず」をどの国も基本原則にすればいい、と思った。
17 ●行った日 12月21日(水) 
●会場にいた時間 90分       
●見て感じたこと、思ったこと、考えたことなど

 今回の展示で単純に驚いたのは、話にも聴いていたが、足下いっぱいに広がっていた世界地図だった。まずは琵琶湖がかなり大きいということに改めて気づかされた。日本全体で見てもはっきりと確認出来る。又、昔研究したことがあったオーストラリアのエアーズロックなどもよく見えておもしろかった。
 しかし、そんなレベルでなく驚きというか驚愕の恐ろしい写真があった。それは空襲前、中、後の写真だった。空襲前はもちろん普通の光景だったが空襲後はまるで別世界に飛んでしまったようだった。本当に荒野のようで映画などにでてくるCGのようだった・・。それが現実で、しかも、同じ場所で一瞬にしてあの場所があんなに変わってしまったなどまったく想像出来ない。戦争は一瞬でなにもかもがなくなり変わり果ててしまう最悪なものだと改めて実感した。
 しかし、更に生々しく残酷な戦争を伝える写真が最後にあった。ジョーオダネルの写真展である。実際に今の日本で起きたこととは思えないくらい信じられない写真ばかりだった。人だとは思えないような体や、死や孤独の恐怖に直面した子供の写真などだ。昔あの時代に生きた人々の恐怖、心の痛みが写真によって少し伝わってきて胸が痛くなった。自分があの時代に生まれていたらどうなっていただろうと思うと恐ろしくて仕方なかった。しかし、逆にアメリカ側にも当時戦争がいけないということを伝えるための写真を撮る人がいたということに少しは嬉しくなった。やはりやってしまったからにはこのような写真を残し教訓にして二度と絶対に起こらないようにすることが大切だと思った。そういう意味では、このような企画は、戦争の真のおぞましさを知らせて、後に世の中を作っていく僕の年代の人々に戦争を絶対にさせない教訓となるある意味素晴らしいものであるのではないだろうかと思う。

 今回は、写真や地図で当時の人々の恐怖が少しは分かった気がした。又、戦争をすることの大きすぎるリスクもよく分かった。しかも、今現在もこのように戦争している国がある・・・何よりも先に考えなくてはいけない悲しい事実だ。今すぐにでも戦争はやめるべきである。
 やはり、戦争はいけない・・。
18 ●現場にいた時間:60分
●見に行った日:12月20日
●感想

 「空爆」=「原爆」というイメージがありましたが今回行って見てそうでもないと思いました。悲惨であったのは原爆のみではありません。焼夷弾などによる大空襲も人は同じくらい死んでいました。空爆後の写真は何もかもが燃えて、まさに焼け野原でした。たくさんの人たちもこれに焼き殺されてしまったそうです。原爆投下の跡地も見ましたが、これも凄かったです。吹っ飛びまくりでした。
 写真を見ていろいろ考えましたが、爆弾を落とした人はたくさんの人の住む町に爆弾を落としたらみんな死んでしまうことが分からなかったのでしょうか?分からないはずはありません。彼らに投下のスイッチを押させてしまったのは彼ら自身の感情、衝動、欲望などからでは絶対にないと思います。戦争が心を曇らせ、操り、そうさせたのです。いくら兵士といっても人間ですから、理由もなしに人を殺すことは出来ません。「国家の正義」という軽薄で害悪で欲望の塊でしかないものが人の心に巣食い操ってしまうのです。そもそも人の命をそれも弱いものの命を奪う戦争が何故に正義なんかもつのでしょうか?「国家の正義」は欲望を満たすための言い訳です。某アメリカ国のブッ○ュさんもこの言い訳を振り回しながらどっかへ行ってしまいました。 欲望全開です。あまりに見え見えであほ過ぎます。
 最後に、僕は絶対に戦争には反対です。理由はたくさんの人が死んでしまうこともあるけど、それ以上に人を殺すことにためらいがなくなってしまうことです。簡単に人が殺せてしまうことです。今回の見学では、空爆の悲惨さより操られてしまった人の心の弱さを実感しました。
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20  太平洋戦争を実際に体験していない僕にとって、日本の受けたダメージというのは広島や長崎の原爆に集中してしまっていた。しかし日本の空襲展を見に行き、その被害の数や被害の大きさを資料を通じて知ることにより、戦争の悲惨さを改めて強く感じた。今、僕達が住んでいるこの東京の空襲の人的被害は93781人の死者を出し、これは広島の原爆の死者数に匹敵する。軍事施設でもなく軍人でもない一般民衆の生活をあっという間に奪ってしまう。こうしたことは日本が最後なのではなく、21世紀の現在も、アフガニスタンやイラクで行われてきたことだ。国と国との争いは絶えずどこかで起きており、同じあやまちが繰り返されている。人間はなぜ価値観のちがう者を理解し認めようとしないのか。このようなあやまちを繰り返さないために僕達は何ができるのか。いろいろと問題意識を問われる展示だった。
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22  空襲の時の写真は何度見ても痛みを感じます。私は誕生日が原爆の日ということもあり原爆の番組などをよく見てきました。そのたびに、アメリカ人はボタンを押しただけで罪悪感などないんだなと思います。被害の大きさや、それのせいで今も苦しんでいる人たちのことなど考えてもいないだろうし言っても伝わらないんだろうと思っていました。
 しかし今回の展示を見て、この写真を撮ったのはアメリカ人なんだと思うと、少しでもこの二度と起こってほしくないことを伝えようとしているんじゃないかと思えました。
 この展示を見て少しショックだったのが、各地域のそのころの写真で自分の家のあたりが海でした。。淋しかったです。
 この戦争から1世紀経ったとき、私たちは約60歳。戦争を体験した人は居なくなっているはずだが、唯一原爆の痛みを知る国として、もっと世界にまで、伝えて行けたらいいなと思います。
23 ●行った日 12月23日(金) ●会場にいた時間 約120分
●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと 等など

 今年で終戦から60年が経ったが、私たちにとっては生まれるよりもずっと前の話で、正直言って、歴史の教科書で見た歴史の1ページといった感じだった。でも、戦争には私たちと同じ若者たちも参加し、たくさんの尊い命が失われた。この「地図と写真で見る日本の空襲」展で展示されていたものは紛れもなく本物であり、60年前に今の私たちと同じように時を過ごしたそういう人々が、その目で見、感じた事実である。それは、私たちが忘れてはいけない事実であり、知っておくべき事実であると思う。

 ここで、展示を見て印象に残ったものをいくつか書こうと思う。

 まず、最初に空襲による戦災地図や写真が展示されていたが、その中には学校や私の家のある文京区周辺地域のものもあった。今まで戦争を身近に感じる機会なんてなかったが、これを見て、こんなに近いところでも多くの被害を受けていたことを知った。

 次に、米国国立公文書館所蔵の航空写真が展示されていた。ターゲットワークシートには、歴史の教科書などでよく見る名前が記載されていて、やはり飛行場や軍需工場などといった重要な場所が狙われていたのだと感じた。また、落とされた爆弾が空中に浮かんでいる写真も印象的だった。私は、その写真と横にあった空襲後の写真とを何度も見比べてしまった。こんな爆弾数個で街が一瞬にして消え失せてしまうという事実には衝撃を受けた。

 そして最後には、ジョー・オダネル氏撮影の写真が展示されていた。ここには以前見たことのある写真も多々あったが、幼い子供の写真などが多く見受けられたのが印象に残っている。歴史の波に翻弄されながらも、その想いや信念を吐露した瞬間が、そこにはあったのだと思う。

 私たちだって歴史の教科書などを見て、60年前に日本が戦争をしたことくらい知っている。でも、この展示を見に行って戦争に翻弄されたものたちの素顔を垣間見た気がする。そして単に戦争を学ぶのではなく、感じられる貴重な体験が出来た。
24  戦争中の資料として1番印象をもたらすのは、写真だと思う。
 被災地で必死に生きている人たち、親がいなくてりんごを分け合う小さな子供たち。そして、戦争でひどい怪我を負った人の写真もあった。当時の一瞬が表されていて、その笑顔の少ない様子から、戦争の悲しさを伝えてきていた。
 また、上空から広い範囲を撮ったものは、空襲でどれくらいの範囲に被害が及んだのかが一目で分かる貴重な資料になる。今回この展示でも、空襲前・空襲中・空襲後という空から撮られた写真が並べてあって、工場がなくなっていってしまう様子が一目で分かり、興味深かった。ただよく考えてみると、単に工場が壊れていく光景としての資料なのかもしれないが、この写真の下で爆発にまきこまれ、けむりにまかれて死んでいく人たちが存在することに気がついた。見えるわけではないけれど、恐いと思った。写真を見ているだけでも、戦争というのは悲しい気持ちになるものだった。
 また、写真を展示しているところは多いが、空襲について地図で表している、というのは見たことも聞いたこともなかった。地図と聞いて、当時の町や村の道筋がかかれているものを想像していた。しかし、展示されていたのは、空襲で焼けてしまったりして被害が出た地域を塗りつぶした地図。壊れている町並みをめぐりながら描かれたのだろうか。一見ふつうの地図なのだが、なんだかさびしい気持ちになる地図だと思った。
 写真と地図、2つの違った観点から戦争について見られて、考えられてとてもいい経験になった。平和な時代に生まれ、戦争を身近に感じたことはないけれど、こうして戦争の悲しさを多くの人が少しでも知り、平和なときを長く続けられたらいいと思う。
25 ●行った日  12月20日(火)
●会場にいた時間  約90分
●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと 等など

 まず、さまざまな掲示物を見て、字が右から左へ書かれていることと、今にはない地図記号(戦時中にしか使われていないような軍事関係のもの)があることに気がつきました。字がどうして昔は右から左読みでいまは逆になったのかはわかりませんが、地図記号は、戦争が生活の中に浸透した様子を表していると思いました。中島飛行機武蔵製鉄所の空襲前、空襲中、空襲後の3枚の写真を見て、空襲によって一瞬にして工場が変わり果てた様子から、その一瞬、1分、1秒という時間に人が死んでいくことを思い知らされました。
 一緒に見学に行った友達が、「私のおじいちゃんはあと1ヶ月戦争が続いていたら、神風特攻隊として、自爆しに行くところだった。」と言っていたのを聞いて、そんなにも戦争が身近にあったのだと思いました。会場で、戦争を実際に体験した方が、様々な体験談を話してくださいました。初めは空襲警報が鳴るとすぐに防空壕に逃げ込んでいたが、だんだん何度も警報が鳴るようになってくると、それに慣れてしまって、ギリギリまで外にいて、そろそろ来るぞというときに落ち着いた状態で防空壕に入っていったということでした。「慣れ」というものは恐ろしいものだと思いました。そのお話を聞いた後、一緒に行った友達が、「アメリカは質よりも量を求めて、とにかくたくさんの爆弾を落とした。日本はお金や人手がないから、質は良くてもあまりたくさんの爆弾を作れなかった。その結果『量』が勝ったんだね。」と言っていました。
 たくさんの写真を見たりお話を聞いたりした後、友達と自分の思ったことを言い合えて、自分の感じなかったことまで発見できて、とてもよい見学会となってよかったです。
26 ●行った日   12月20日(火)               
●会場にいた時間   約120分

●見て感じたこと、思ったとこ、考えてこと 等など
 
 私がこの展示の中で、一番印象に残っているところは、最初の展示物である空襲などによる死者・崩壊家屋数の数です。爆弾の数が東京都内で53万個と想像していた数をはるかにしのぐ多さで、その中でも焼夷弾の数が、42万個とても多くて驚きました。また、死者の数もとても多く、これだけの一般被害者を出した爆弾や焼夷弾の威力を思い知らされました。                            
 はじめの展示ブースでは、東京都近郊の戦災図が何枚も飾られていました。都心部を中心に23区一帯が焼け野原になっているような悲惨さでした。現在私が住んでいる家付近は大丈夫だったようですが、学校のあたりは一面焼け野原でした。あって地震の恐怖にしか襲われない現在の東京の様子からは想像もつかないものではないかと思います。運のいいことに、私たちは当時最強といわれていたゼロ戦を製造していた中島飛行機の工場に勤めていた方のお話を聞くことができました。話によると、初めは空襲の怖さから、空襲警報が鳴るたびに、すぐさま防空壕に入っていたのに、慣れるにしたがって、B29が爆弾を投下するころになって始めてゆっくりと防空壕に入り、ギリギリ間に合ったというときがよくあったそうです。工場がよく狙われていたのは知っていましたが、毎回の空襲で必ずといってもいいほど、爆弾が投下されていたそうです。また、3月10日の東京大空襲のときは、たまたま休みを取っていて、実家に帰省しようとしていたときだったそうで、乗っていた列車は大量に投下された焼夷弾による炎の中を抜けて走って行ったそうです。大宮のあたりまで来てもまだあたりがまるで昼間のように明らんでいたそうで、空襲の大きさを思い知ったということです。また、空襲は交通マヒも引き起こすそうで、時には新宿から三鷹の自宅まで歩いたこともあるそうです。                                                 
 次の展示ブースでは、足元に広がる世界地図がとても印象的でした。初めは驚くばかりでしたが、地球規模では、私の足元にはこの地球のどこか一点が広がっているんだ。ということに気付きました。周りにある展示も写真が多く取り入れられていて見ものでした。                                  
 今から60年前、私たちのよく知る場所で起きていた空襲。まだ、半世紀と少ししか経っていないのに、同じ場所の外観はすっかり変わってしまいました。今回、こうやって私たちの知らないときの日本をこの目で見ることができ、本当によかったです。また、この展示会を通じて、実際に戦争を体験した人からお話を聞くことができ、より親密感が沸きました。      
27 ●行った日12/21(水)
●会場にいた時間90分
●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと

 戦争というと、兵器や人に関することしか思いつかず、地図の重要性は考えてもみないことだった。確かに言われてみれば地の利というのはかなり大きなものだと思うが、それが機密事項のような扱いを受けるというのは本当に戦争には色々なものが関係していたのだと感じた。それは例えば今回の展示で言うならば、軍艦の壊れた数のドットマップだとか、地域別の死者数のドットマップなどに表れていて、そういうデータをもとに綿密な戦略がたてられていたのだろうと思った。
 会場で驚いたのは、空襲のときの爆弾を落としているまさにその瞬間の写真があったことで、そんな写真を米兵はどんな気持ちで撮ったのだろうと考えた。のちに重要になると考えたのか、ただ興味からなのか、何にせよある程度の冷静さを持っていたなら自分の行っている爆弾投下ということにかなりの罪悪感を抱いただろうし、それなら空襲なんてしないでほしかったと思うけど、それができないから戦争は冷酷なのだろうと思った。
 先生が授業中に“係員さんがよってきて説明してくれる”と言われていたように、本当に係員さんの説明を受けることができた。その中で“もし日本が勝っていたら誰が裁かれていたか、それはトルーマン大統領だ”という話があった。なぜなら原爆投下を指示したからであるが、私はその時、日本人にはアメリカに非道な行いをされたにも関わらず、憎んでいる人が少ないのを改めて感じた。それは自分が「アメリカの戦犯」たいう考え方を一度も聞いたことがないということがあったし、原爆の被害の程度のことをよく知っていても、それを行った本人や国についてはそこまで勉強していないと思ったからだ。罪を憎んで人を憎まずという言葉があるように、ただアメリカを憎むだけじゃない日本はすごく良いと思うが、考えてなさすぎるのも少し問題ではないかとおもう。忘れてはいけないことだからこそ、アメリカのことも知るべきだと思った。
 最後に、体育館一面の世界地図は楽しかった。
29 ●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと

 単純に分かったこととして、、私の住んでいる地域は、あまり重要ではなかったのか、被害が少なかったようでした。また、皇居の東側の方が、より被害をうけているようでした。

 感じたこと、、、今までは、単純に『戦争は嫌、怖い』と思っていました。
 しかし、実際に見てみて、信じられないほど生々しい写真が残っていることに驚き、また、それらを見て、『この地域も60年前は戦時下だった』ということを、強く感じました。戦争の面影のない今からすると、かなり前の過去のこと、という風に思っていましたが、長い歴史から見ると、とても短い期間で、戦争を経験した人たちが、少なくなっているとはいえ、今も生きているんだな、と思い、また、私の祖父も戦争に行った、ということを祖母から聞きました。たったの60年で、面影をなくしてしまうことは、とても凄いことなんだと思います。
 展示場では、米兵の撮った写真とともに、コメントのようなものがあり、その中で、自分たちがここまでひどいことをしているとは想像もしなかった、とのようなことがありました。今までは、戦争はどっちがしかけた、どっちが発端だ、ということを考えてしまいがちでした。しかし、実際に戦ったひとのコメントを見て、自分は実際戦った人たちについては、何も知らないんだな、と思い、また、戦争という行為そのものについてもっと考えるべきだな、と感じました。
30 ● 行った日・・・12月21日 水曜日
● 会場にいた時間・・・60分
● 見て感じたこと、思ったこと、考えたこと

 この展示を見て、本当に戦争の光景を目の当たりにした気がしました。
 テレビや本で見るのとはまた違う感じがして、本当に悲惨な戦いが行われたんだ、という事実を見せつけられた思いがしました。
 1番印象に残っている写真は・・・原爆前、原爆中、原爆後とリアルに撮られた空中写真です。
この3枚の写真の中に、どれだけの人がどんな思いでいたのか、考えただけで立っていられなくなりました。
 それから色々な地域に記された死人や負傷者の数。
 簡単に数字で表わしてはいけないものなのに・・・と思いながら、たくさんの人が亡くなったのを知り、追悼する気持ちと恐怖の両方でいっぱいでした。
 あと敵軍の作戦用の地図のようなものにいくつもチェックが鉛筆でつけられているのを見たとたん、すごく現実味がして戦争が本当にあったことを実感しました。
 他にも展示されていた写真や地図の全てが私に様々な感情を与えてくれて、見ながらこの戦争を経験した祖父や祖母を思い出しました。

 このような展示を見に行くのは、あまり自分から進んでは行きたがらなかったと思います。でも、今回こうやって行く機会があって本当に良かったです。そうじゃなかったら、私はずっと心のどこかでこんな残酷な戦争があったことを受け止められずにいたと思います。
何度も目をつぶりたくなるような写真がたくさんあったけれど、私たちのようなこれから社会に出る年代の若い人たちが、しっかり目を見開いて、見なければいけないのだと思いました。こうして、大きな間違いをしてしまったことをみんなが認識して、これから平和な世の中を作っていくべきです。     
31  東京大空襲(1945年3月10日)の直前の東京を上空から撮影した写真と空襲後の写真が展示されている所や長崎・広島の原爆投下前後の写真が展示されている所が印象に残った。
 床一面に世界地図が貼られた部屋の周りには第二次世界大戦中、米軍に配属された1人のカメラマンの記録が展示されている。
 彼の記録には焼かれて何もなくなった広島・長崎の様子がコメントと共に鮮明に書き記されている。弟の亡骸をその小さな背に背負って火葬場へ向かう少年、焼け野原となった街で新年を祝う少女の写真など。
 その中で日本がアメリカに降伏しマッカーサーと当時の米大統領トルーマンが来日した際に撮った写真があった。そこには彼がトルーマン大統領にインタビューをしたその内容が書かれていた。質問内容は『広島・長崎の原爆投下についてどう思うか。』だった。トルーマンはこの質問に『勿論その決定か正しかったかは大いに疑わしかったし、その思いは強くさえなっている』と答えた。やはりトルーマンも人の子だったのだなと思われる応答だなと思った。一発で何十万もの命を奪ってしまうような兵器の使用許可をだすのは相当の精神力が必要だったことだろう。たとえその目的が世界の望みである早期終戦だったとしてもだ。
 しかし広島への原爆投下は避けられなかったのかもしれないが長崎への投下は避けられたはずだった。この点は米軍が日本にあてた降伏文書から伺うことができる。広島で使用された兵器の恐ろしさは日本がその身をもって実感したはずだ。何故そこで降伏という道を選べなかったのが…。降伏という言葉がどれだけ重いが私には分からないが一個人としての意見では、そこで降伏を選び犠牲者を少しでも減らすという考えもあってよかったのではないかと思った。世界で生きていく以上、国家間の強弱というものがどれだけ重要なのかは分かるし、強いだけどれだけ有利にことをすすめることが出来るかということも分かる。だが、人の命と秤にかけたとき重いのはやはり人の命だ。今だから言えるのかもしれないが当時はもう少し人の命の大切さについて考える必要があったのではないかと思った。
32  今とは違う昔の地域区分で描かれた空襲の被害を表す地図で学校を探してみたが、見当たらなかった。米軍の攻撃は天皇のいる皇居をhずしていて、そういうところの余裕さえ感じた。たくさんの決定的な写真がかざられてあり、後にとても役に立ったのであろうが、私はこの写真を撮った人物が非常に気になる。また大空襲の直前の土地の様子と直後の土地の様子を比べてみると直後は、本当に何も無く焼け焦げてしまっていて、当時の状況のすさまじさが伝わってきた。体育館全体で展示されていた大世界地図では地図上だけでは分からない大きさの比較や距離などを体感することが出来た。出口のところで見たビデオは戦争の実態が辛い場面まで包み隠さず写されていて、衝撃的であったが、戦争の残酷さを改めてしることができ考えさせられるものだった。新しい発見がたくさんあり、展示会を見れてとてもよかった。
33  会場に入ってまず一番最初に見た「帝都近傍図」の細かさには驚きました。
 歩き回って被害の情報を集めるのはとても苦労しただろうなと思いました。
 また、「雪の上野」の写真は焼けたあとがくっきり残っていて印象的でした。
 これを撮ったアメリカ軍はある意味かしこいな、と思いました。
 「渡辺さん」という人の子供のころの体験談で「松沢小学校」が登場していました。
 私は日大に着くまでに迷子になってしまい松沢小学校の周りをぐるぐるとまわっていました。
60年前、同じ場所で空襲から逃げ回っていた人がいたかと思うと、戦争に対するリアリティが増しました。
 各地の空襲の被害を紹介しているコーナーでは、アメリカ軍が作成した「ターゲットワークシート」もあり、空襲が綿密に計画されたのだということがわかりました。
 戦争中の日本の様子をとらえた写真の中に「アメリカ軍パイロットの墓」があり、この墓をつくった日本人はたとえ敵であっても、アメリカ兵の遺体を丁寧に扱っていたので感動しました。
34  この写真展を見て一番感じたことは、「真実はあまりにも残酷だ」ということだ。米軍が撮影した多くの航空写真。爆弾投下前、投下中、投下後と同じ場所が全く違う風景になっていく姿をまざまざと見せつけられる。投下中の写真では実際に落ちていく爆弾や煙がはっきりと映っていた。私たちは、つい、戦争のことを遠い昔の話のように考えてしまい、現実味がなくなりがちだが、これらの写真は生々しいほどで、なんだか寒気がした。
 しかし、忘れてはならないのは、日本も様々な国にこれと同様か、もしくはそれ以上に残虐なことをしてきたということである。日本にいる限り、戦争についての知識の多くが原爆の話や憲法第九条などの平和についてのことになり、やはり、どうしても被害者としての日本ばかりをみてしまう。確かに、日本は朝鮮や中国、東南アジアの人々にひどいことをしたんだ、という事実ぐらいは小学校にしろ中学校にしろ教わってはいる。しかし、たかだか歴史の教科書数ページである。
 これは人にきいた話だが、シンガポールの小学校では、日本兵によって現地の人々が殺されていく様子が8ミリで撮影された実際の映像をみせているそうだ。私たちは果たして加害者としての日本の姿を本当に知っているのだろうか。真実はきっと想像以上に残酷なのだ。
 そして、最後のフロアに着くと床一面を使った世界地図があった、その地図の大きさ、鮮やかさには驚愕した。地球は本当に綺麗だと思った。それなのに、今も絶えずこの地球上で醜い争いは続いている。戦争で人が死んでいる―――。
 この地図の上を転がっていた、小さなまだ1歳ぐらいの少年がいた。彼はまだきっと何も知らないけれど、この少年が大人になったとき、世界が平和に少しでも近づいていたらいいと思った。
35  空襲後の写真は見たことあったけど、直前の写真は見たことがなく何がどう変わった、とか見られてよかった。二つの写真は全く違い、本当に一時の間にすべてが焼き消してしまったのだと思った。空襲中の写真はけむりだらけで、なんだかすごく悲しくなった。飛行機から爆弾を落とすところの写真があった。B29と町が一緒に写っている写真は見たことがなく貴重なものを見たと思った。思わず見入ってしまった。何を自分が思っていたかわからないけど、ずっと見ていた。アメリカはなぜこの写真を撮ったのだろう。
 1番印象に残っているのは焼け野原、母親と手をつないでたたずんでいる男の子がカメラのほうをじっと見ている。男の子は泣いていたわけでもなく、ただ眉間にしわを寄せていた。この写真を撮ったのはアメリカ人か。多分そうだと思う。それを考えるとなんともいえない深い悲しみが襲う。男の子は何が起こったのかわからず、なぜこんなことになっているのかわかっていないと思う。目を離せなくなった。
 床に張ってあった世界地図のパネルはすごかった。ただ高低さが少しわかりにくかったように思える。知っている所へ行ってみたりするのは楽しかった。
 「映像の世紀」を見た。途中からだったが、様々な映像を見た。DVDが出て、ほしいと思っていたところだった。目をそらしたいシーンばかりだけど、絶対にそらしてはいけないと思った。見て感じて後につなげなければ、と思った。アメリカ兵士の話で「私はただボタンを押しているだけ。殺した人間を一度も見たことがない。」「催眠術のように自分を言い聞かせている。」とあった。戦争は殺されたほうに目が行くけど、殺したほうに目を向けることも大切だと思った。日本は負けたから、今のように悲しみとか放送されているけれど、もし日本が勝っていたら、アメリカが日本のようになって、日本がアメリカのようになってしまうのか。そうしたら今の日本はどうなっていたか。考えると恐ろしい。 原爆を落とされたから、原爆を持たない。世界で唯一被害にあったところだから。
 日本は戦争に負けていろいろなことを学んだと思う。そのおかげで今の平和な日本がある。アメリカみたく戦争をしない。今、中学生で太平洋戦争で日本がどこの国と戦ったのか知らないひとがいるらしい。もしこのまま月日が流れ、経験した人が亡くなったら、知らない人が増えてしまう。後世に伝えることはとても大切。私には戦争の苦しみや悲しみはわからない。経験した人でないとわからないと思う。だから写真をみて悲しい、かわいそうという言葉じゃ表せないのもわかる。そんな一言で表しちゃいけないのもわかる。でもそう思ったのはたしかで、悲しくて悲しくて、目を背けたい過去だけどきちんと受け止めていかなければいけない。これが過去になっていない人だっている。
 このような展示会は積極的に行こうと思う。日本だけが苦しいのでなぃ、アメリカの人も苦しかったと思う。視野を広げることができてよかった。
36 ●行った日 12月24日(土)
●会場にいた時間 約六十分ほど

 結論から言うと、これを見て、戦争というものは本当に恐ろしい物だと改めて感じさせられた。
 そもそも『戦争が恐ろしい』は当たり前の事で、歴史の授業などでも毎回取り上げられているのだが、私は何となく実感が湧かなかった。
 以前、親戚に戦争の事を訊いた時も“何となく”しか感触は掴めず、勿論当事者で無いからそれも当たり前なのだが、勝手に胸に穴が開いたような気分でいた。
 今回の空襲展に行ってみて、本当に戦争の恐ろしさを痛感した

 戦争だけではない。内紛やテロ、争い事の数々を思うと、何だか(これも勝手に、だが)憂えてくる。
 今回の空襲展で心に焼き付いたのは、犠牲者の分布を表す地図とリアルな写真である。
 犠牲者の分布を見て、赤で覆われた被害状況を見て、来場者達は何を思ったのだろうか。
 爆撃前の写真と爆撃後の写真を見て、何を思ったのだろうか。
 航空写真を見て、オダネル氏の写真を見て、何を思ったのだろうか。
 米国が悪いとか、いや日本だとか、どちらが悪いとか、そういう事ではない。ただ、はっきりと言えるのは、戦争が酷く哀しいものだという事だと、私は思う。
 この空襲展は、人々に地図や写真を通して平和を訴えているのだと感じた。
37 ● 行った日   12月19日(月)   
● 会場に行った時間 約80分
● 見て感じたこと、思ったこと、考えたこと 等など
 特に印象に残ったことを、以下記します。
 まず、この展示で始めに目に付いたのは「地図」でした。地形図に、爆撃地が赤い斜線で記された地図。ただ、これは自分の住んでいる地区や有名な都市以外は、多少すっとばしてしまいました。流石にあれだけ広いと…と多少弁解してみたり。個人的には後半の世界地図のほうがずっと興味深かったです。昔は「漫浪正大」のように文字を逆に書いているので、「アニマール」という地名をみて、地味にうけました。大きい世界地図が床に貼られているのを見た時には、「そういうものがある」と前もって分かってはいても、結構びっくりしました。

 次に写真。これはたくさん印象深いのがありました。
1. 投下された空中爆弾が赤のビニールテープで囲まれた写真
爆弾が投下され、地上に落ちそうなところの写真。あれらが落ちて、たくさんの
人が亡くなったんだなあ…と思う。ただ、爆弾と地上の1ブロック(△町○丁目の部分のこと)が同じ大きさに写っていて、遠近感がつかめなかった。
2. ジョー・オダネル写真展
これはじっくり見た。特に「砕け散った骨の破片の写真」「大砲のハリボテ」など
が印象深かった(名前は勝手に付けさせていただきました)です。はじめに「胎児の頭蓋骨、骨盤」などと言った字が写真に書き込まれているときは、それが何なのかさえ分かりませんでした。人の体はあんなにもはかないものなのだなあ、爆弾っておぞましいものだなあ、とつくづく思います。「蝿がむらがるのも気にせず林檎一個を兄弟三人分け合って食べた」記述も印象的でした。

 最後に展示パネル。
 「(日本には船がもう残り少なく、その殆どは貿易用で)船がない もはや防御不可能」「来春の春までもつ食料もない」ほど切迫した日本の状況。
 撃墜された日本の船。
 ここでどうしても気になったのは船の名前です。「ブラジル丸」「ぶえのすあいれす丸」はては、「りおで志やねいろ丸」なんてのもありました。ただ、「おれごん丸」という、敵の国であるはずの地名を使った船もあったのが不思議でなりません。

中間テスト終了後に、この「地図と写真で見る日本の空襲」展を見に行ったわけですが、見ている時間は大した事ないのに、展示品がおもい≠ケいでしょうか、見た後はすごく疲れました。なんというか、見ていて消耗しました。
 こんな恐ろしい事は、二度と起きちゃいけないと思います。
38 ●行った日 12月23日(金)  
●滞在時間 約90分

 地図や航空写真を集めた空襲の展示会、というのは初めてで、入館してすぐの時は「似たような写真や地図ばかりだなあ〜」と思っていました。しかし、一つ一つをしっかり見ていくと、空襲前後でのまちの様子変化や空襲の威力の凄まじさがとてもよくわかって、完全に見入ってしまいました。空襲の被害にあった場所があんなにぽっかりと暗く見えるなんて思っても見ませんでした。都内の被災地区を色分けして示してあった地図をみて、街のこんなにも大部分が焼き払われてしまったなんて・・・と衝撃を受けました。数字で「○○人が亡くなった」とか文章で「○○が全焼」と言われるよりも、今回のように自分の目で見て被災前後を比較することで、被害の凄さがよくわかりました。
 また、ジョーオネダル氏の写真展がとても印象に残りました。兵士であった彼の視点から見た戦争直後の日本は、とても痛々しいものでした。軍のカメラマンであった彼があそこまで衝撃を受け、街の様子に言葉を失った・・・というのだから、私たちのような戦争経験のない者があの状況を目の当たりにしたら・・・と複雑な思いがしました。戦火とは無縁の今の日本に生まれた自分には、あれらの日記や写真はショックが大きかったのです。
 話が戻りますが、地図を冷静に見ると、米軍が、大都市の人口密集地・軍事基地・工場に狙いを定めて攻撃していることに気づきました。空からの攻撃でもこんなに正確に行うことができたのか・・・と驚きました。そして、戦争において地図が重要なものであったということも改めて感じました。また、原爆を落とした直後と、焼跡の航空写真を米軍が撮っていたと思うのですが、大きなキノコ雲やぽっかりと空いた町の焼跡を、どんな気持ちで撮っていたのだろう・・・と思ってしまいました。米軍に限らず当時の日本も含め多くの国が残酷なことをしていたのだろうと思いますが。。。
39 ●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと 等など

 今まで私は『地図』は単なる地理を読み取る便宜上の記号でしかないと思っていました。『地図』が何かを語ったり思いを伝えることがあるとは考えもしませんでした。
 しかし今回の展示を見て強く胸を打たれました。それは私だけでなく周りの人々も同じように地図を深く真剣に見入り目を潤ませていました。太平洋戦争において日本は地上戦を沖縄のみしか体験しなかったことは知っていましたが、それはアメリカが日本を空襲のみで陥落出来ると判断したことによるものだとは知りませんでした。アメリカが大きな被害を受ける地上戦をする必要も無かったこと、そしてその判断が正しかったこともショックでした。
 連合軍はレーダー等の情報で日本軍の行動を詳細に知っていたのに対し日本軍は闇雲に突き進んでいただけであったこと、シンガポールやフィリピンで失われた日本兵の命は犬死でしかなかったこと、今も野ざらしにされている数知れない遺骨の無念さが私の胸に迫りました。軍事力の差もさることながら無謀・無知な日本に対し、情報戦を制したアメリカの勝利だったのでしょう。
 被災・消失した面積、塗りつぶされた地図の部分にどれだけの民間人の命が失われたこと でしょう。文字どおり雨のように降ってくる爆弾を想像しただけで、その恐ろしさに絶望します。韓国が日本の領土として塗られていたことを恥ずかしく思い、敵味方中立国の色分け地図を手に勝利のぬか喜びをしていた日本国民を哀しく思いました。また今回の展示で一番印象に残ったのは背中に幼児を負ぶった自身もまだ幼い兄が直立不動で弟妹の亡骸を焼くのを見送っている姿でした。涙を流すことも無く口を一文字に閉め、背中をピンと伸ばし…、この子たちは無事に生き延びることが出来たのだろうか…、胸が潰れそうでした。
 唯一の救いはこれらの写真を撮った元米国戦略爆弾調査団カメラマンのジョー・オダネル氏の「原爆を落としたのは間違いであった。…私は非戦を命の続く限り世界中の人々に訴えていく。」という言葉でした。どのような理由があろうと正しい戦争≠ネど有りはしないと思います。絶対に無いのです。
40  館内は意外と、みる物が少なかった。やはり、一番、目のいってしまうところは、自分の住んでいる地域の被災マップだった。「本郷」の地図をみると、自分の小学校がのっていたりと、色々と身近に感じることもあった。(ちなみに、その小学校はそこだけ白いままでまわりと対照的に、爆撃をうけていなかった。)また、米軍によって撮影されていた白黒の写真の数々をみて、日本の写真に英語で土地名が記録されているのがなんだか奇妙な感じがした。また、爆撃前と後の写真が対になっているのが多かったのだが、戦争のときは、そういうところまで撮るものなのかなとも思った。実際、そこまでする余裕など、なさそうな印象を与えていたのが、自分にとっての「戦争」のイメージだったので、これらの写真には少しびっくりした。
 大広間には、床一面に世界地図がしきつめられていて、とてもおもしろかった。反面、まわりの壁にかざってあった写真の中には、とても痛々しいものもあった。周りにかけてあった写真の中で、米人カメラマンのとっていま長崎のシリーズは、前にもテレビでみたことがあったものだったが、今回はその横にかいてある説明をじっくり読めたこともあって、心に残るものもあった。とくに、「」爆撃をうけた教会」の写真で、「礼拝中に全ての人が死に絶えた」様子を想像してしまい、とてもむごいと思った。
41  今まで、何回か広島原爆の悲惨さは勉強してきましたが、他の地域の被害の大きさも見ることができて、とても良い勉強になったと思います。B29が爆弾をお年前の様子を、さらに上空から写真に撮っている写真もあり、それにはやるせない気持ちになりました。
 また、私たちが一番長く時間を費やしたのは、大きな世界地図のところです。自分が今まで思っていたのとは違うことがたくさん発見できて、自分の無知さに少しショックを受けました。ハワイはグアムやサイパン辺りにあると思っていたのに、日本から相当離れた所にあることや、たくさん湖がある中でどれが五大湖なのか…など。
 世界の歴史はもちろん、まだまだ日本の歴史でも知らないことがたくさんあるので、こういう展示会にはなるべく自分から参加するようにしたいな、と思います。また、今回は最後のほうにあったモニターを怖くて見ることができなかったので、ちゃんと現実に向き合えるようになりたいと思いました。
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