「地図と写真で見る日本の空襲」展 を見て
12月レポート   1組 2組 4組 6組
1 ●行った日 12月19日
●会場にいた時間 約100分
●感想

 展示を見進めていくにつれ、気持ちが重くなっていきました。その被害の悲惨さは、写真からひしひしと伝わってきました
。まず印象に残ったものが、仮埋葬地とそこに埋葬された人の数、慰霊碑などを表した地図です。驚いたことにすべて「仮」の埋葬地でした。そこから戦争中の状況がいかにひどく、悪環境だったのかが分かった気がしました。また東京23区内だけでも慰霊碑は数え切れないほどありました。普段東京都暮らしていて戦争といえば、「広島」「長崎」というイメージがありましたが、この展示で自分が住んでいる東京も残酷な目に遭ったのだと改めて気づかされました。 また展示の中には空襲前後の写真が数多く展示されていましたが、それを比較することで被害の甚大さがはっきりと分かりました。
 今回初めて見たものが数多くあり、知識の乏しさを感じました。戦争から月日が経つにつれ、都市などは復興しますがそれとともに戦争を肌で体験した人は確実に減っていきます。次の世代に語り継ぐのは僕たち現代人の責務だと思います。そのためにも、出来るだけ多くの事を経験者である祖父母に聞いて、知識を得なければならないと思います。
2 ●行った日...12月19日
●会場にいた時間...約100分
●感想など

 展示会には様々な都市の空爆の実態が残されていた。今住んでいるところの記録もあったし、故郷の盛岡の記録もあり、身近なところでも大きな被害を受けていたことがわかった。今いるところがかつて焼け野原だったとは想像できない。
 地図もそうだが、写真はそれ以上に当時の様子をよく物語っていた。色々な写真があったが、投下中の爆弾や爆撃機が映っているものや、原爆前後のもの、街から煙が上がっているものなどは特に衝撃的だった。この写真の下では何人もの命が奪われたのだろうと思うと非常に悲しい。悲しいといえば、戦争で親を失った孤児の写真だ。特にも死んだ弟を背負い、顔を強張らせて一点を見つめている少年の写真には心に迫るものがあった。その少年に戦争のむなしさや醜さを重ねることができ、見ていて本当に悲しかった。
 戦争は繰り返してはいけないということを改めて痛感させられる展示会だった。今生活していて戦争の脅威を感じないというのは平和の証拠だが、そのことが戦争を防ぎたいという気持ちの劣化を招く恐れもあり危険だ。こういった記録を大切にしていかなければならないと思った。武力を用いてでしか問題を解決できないような世界であってほしくない。
3  広島の原爆と言えば日本の歴史の中で最も悲惨な出来事ではないかと思う。いや、世界の歴史の中でもこれ以上の兵器が使われた国はないのだ。広島、長崎への原爆投下はだからこそ忘れてはいけないもの、故にこのようにして授業で取り上げるなどして戦争を知らない若者たちにsの現実を知る場面を与えているのだろう。
 実際、原爆の話は小学校から国語の教科書などにしばしば載っていた。国も広島、長崎への原爆投下という事実を単なる過去の歴史として風化させてはいけないと認識しているのだろう。しかし原爆投下にいたる様々な背景を知らずしてただ単純にアメリカが悪いと主張するのもあまり良いことではないだろう。こういう展示を機会に戦争に関する資料を見てそういった背景を知ることも必要だと思った。
 また、空襲は広島や長崎だけでなく「東京大空襲」というのもあるが、その写真を見るとショックを受けた。一見、死体なのかどうかすらわからない、炭の塊のようになってしまった人間を見ると写真が偽物なのではないかと疑ってしまった。泣きたくなるような衝動にすら駆られた。
 しかし、現実を受け止めなければいけないし、実際自分だって爆弾や銃を浴びせられればそういう姿になるだろう。人を殺すということがどういうことなのか、戦争が大規模化、ハイテク化すればするほどよくわからなくなっていく。今ここにいてこの感想文なんてものを悠長に書いていられる自分が、自分の環境が不思議な物に感じて来すらする。しかし人類が誕生してから一度も戦争が行なわれなかったとしたら今の文明社会があったかは不明である。戦争を必要悪だとかは言わないしこれっぽっちもそうは思わないが、奴隷貿易のおかげで発展した国があるように戦争があったからこそいま存在して繁栄している国もあるだろう。もし自分がそういった国の人間であったとしたら戦争を完全否定できる立場にあるのだろうか。完全否定しなくてはいけないと思うが、そんなに浅い問題ではないと思った。  平和な環境に生まれたからこそ戦争について考えなくてはいけないと思う。
4 ●行った日 12月22日
●会場にいた時間 100分

 今回、地理の12月レポートとして「地図と写真で見る日本の空襲」展を見に行き、まず大きな衝撃を受けた。日本の空襲についての展示だからということもあるが、この展示会は地図と写真を用いていたため、ものすごくリアルに感じられ、今までにない衝撃を受けた。地図では、どの地域がどれほど空襲を受けたのかが細かくわかり、また被災者の証言などをもとに避難した経路やその様子などもわかった。写真では、空襲による被害の様子が鮮明に写されていて、地図では見ることができない被害の実体がわかったので、大きな衝撃を受けた。写真の中には爆弾を投下している空襲中の写真もあり、戦争の残酷さのようなものを見せつけられたようで、見ていられなかった。
 また、「ジョー・オダネル写真展」では、写真だけでなく写真の下に書かれていたコメントのようなものでも悲惨さが伝わってきて、またアメリカ側のこの戦争に対するとらえ方についても知ることができ、貴重な経験となった。床1面に広がっていた世界地図では、日本の小ささを感じた気がした。
 最後に観たビデオでは、当時の様子などについて、実際に空襲を経験した人の話やその時に描いた絵などが画面に映り、またその話が、自分は助かったが家族は助からなかったというようなものがいくつかあり、悲しいというか大きな衝撃を受けたし、実際に体験した人のことを考えると、何ともやりきれない感じがした。

 今回「地図と写真で見る日本の空襲」展へ行き、改めて、また今まで以上に戦争の悲惨さ、残酷さを感じたし、戦争は絶対に2度と起こってはいけないもの、どうして戦争は起こるのだろう、どうして何の罪もない一般市民が苦しめられなければならないのだろうと思った。
5  まずはじめに目に入ってきたのは、地図に赤い印がつけてあるものだった。これは、爆弾が落とされた地域をあらわしていて、その範囲の広さに驚いた。ただ、皇居だけはどの写真も赤い印はついておらず、アメリカの爆弾の恐ろしさが窺える。さらに進んでいくと、爆弾をまさに投下しているときの写真を見つけた。その隣には、投下する前、直後の写真も並べられていて、たった一瞬で廃墟にしてしまうその威力に言葉を失った。
 さらに足を進めると、ジョー・オダネル氏の写真があった。 そこには、当時の様子が鮮明にうつしだされていた。全身に火傷をおった人の写真は戦争の残酷さを教えてくれる。またその階の床には、世界地図になっていて、世界の中心で愛を叫べた。しかし、ドミニカなどは切れていてなかった。
 最後にはNHKのビデオで東京大空襲について放送していた。そのイメージ映像だけでもすごいのに、そこにいた空襲を経験した人の話では、この程度ではないらしい。改めて恐ろしさを実感した。
 今回の経験を通して、戦争はどんなことがあっても繰り返してはいけないと痛感した。
6 ●行った日…12月24日(土)
●会場にいた時間…約70分

 一番印象に残っているのはジョーオダネル氏の写真です。特に子供の写真です。廃墟の中、幼い子供がさらに幼い子供を連れている写真や、死んだ弟を背負って遠くを見つめて立っている少年の写真。まだ幼いのになんだか「強さ」のようなものが感じられましたが、彼らがその先どのようにして生きていったのか、また生きていられたのか想像すると、悲しいようなそんな気分になりました。どうして罪のない子供たちがつらい思いをしなければならないのだろうか、そうあってはならないという思いでいっぱいにもなりました。
 また東京大空襲での罹災者の状況を見て、墨田区や台東区、江東区の罹災者の多さに驚きました。下町に住んでいた、軍とは関係のない民衆が多く亡くなったということ。これもあってはならないことだと感じました。
 爆撃機の行動の日程のようなものにも驚きました。最初の時期の目標には軍に関係した施設の名が記されているものの、後の方になってくると「○○市街地」と多く記されているのを見て非常に衝撃を受けました。
 また、爆撃前と爆撃後の写真の違い。全く違いました。爆撃後というのは、まさに焼け野原といった感じの状況でした。「跡形もなく」という状況でした。非常に衝撃を受けました。

 戦争の最も憎むべき点、それは「罪のない人が亡くなる(被害を受ける)」ということだと思います。このことを非常に痛感させられました。
 また、軍事に利用された地図も展示されていましたが、これから先、地図が軍事に利用されることのないような世の中が来ることを願います。
7  戦争はおこしてはいけないものだとか、戦争はやってはいけないだとかそのようなことをたくさん聞きますが、この展覧会に行くまで戦争の被害の甚大さがわからなかったのか、または単にそれに興味がなかったのかはわかりませんが、戦争とは一体どういうものなのかはっきりと認識していませんでした。
 多くの物語を聞き、そしてそれをイメージすることは容易いことですが一人一人がイメージするものは必ず違います。しかし、動画化(視覚化)すればほぼ全員その物語を思い出したときその動画化されたものを思い出すでしょう。それと同様に、おそらく僕たちも個人個人さまざまな戦争のイメージをもっていますが、僕たちがもっているイメージではない本当の戦争を写真や地図で被害の様子を見られたので、戦争とはどういうものなのかを改めて感じることができました。
 今後僕たちが今後戦争というものに対してどのような意識をもたなければならないのかを考えるよい機会になったと思いました。
8 ●行った日 12月20日
●会場にいた時間 約120分
●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと など

 会場に入る前、会場の建物が地味でした。受付でパンフレットをもらったとき、ここ で2時間閉じこもっていなければならないと思いました。  
 まず、小さい部屋に入りました。ここには、東京都の戦争時の資料がたくさん展示さ れています。この部屋に入って最初は暑かったのですが、時間がたつにつれて、だんだ んと暑さを感じなくなりました。区ごとに空襲の被害状況の地図が張られていたのです が、東京に35区も区があったのに少しびっくりしました。日本橋区、本所区などがあっ たそうです。それから、自分の住んでいる町の名前が地図に書かれていてうれしかったです。
 ずっと資料を眺めていて、気づいたら結構時間がたっていました。この部屋を出 た後、トイレに行ってから、次の展示場所である体育館の2階部分に行ったのですが、 トイレも体育館も施設が抜群によかったです。さすが大学ですね。
 体育館の2階部分には、日本全体の戦争時の資料がたくさん展示されています。ここ から1階部分を眺めると、そこには体育館の床いっぱいに世界地図がひろがっていて、 人がその地図を踏めるようになっていました。また、ここで椅子を見つけましたが、そ れはこの会場に来てから初めて見た椅子だったのです。そこに座って少し休みました。 2階部分を見まわり、1階部分に下りました。
 ここにあるさまざまな資料の中には、原子爆弾を落とされた広島、長崎についての資 料も展示されていました。原子爆弾投下直後の街の写真が何枚もあり、生々しくて少し 怖いほどでした。それから、床いっぱいの世界地図で、世界のいろんなところに行って みました。
 体育館を出ると、記念品や本を売っているおじさんがいました。その人は田代先生と 長年の知りありだそうです。昔は、日本にある地図はフランス式の表記法だったのだが 、今はドイツ式の表記法であることを教えてくれました。あと、田代先生の書いた本も ありました。
 会場の出口の近くで、ビデオを見ることができました。そのビデオは第2次世界大戦 後に起こった戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争などについてでした。このビデオはNHK で放送されたもので、ぼくは、中学校の社会の時間に何回か見たことがありました。印 象に残ったことは、ビデオで流れている音楽が少し怖かったことです。
 時計で、会場に来てから2時間が過ぎたことを確認し、その建物を出ました。外は寒 かったです。
9 ●行った日:12月22日
●会場にいた時間:100分

 館内に入ると所々赤く塗られた戦災状況図がまず目に入った。飛行場や造船所などの軍事拠点だけでなく市街地も戦火にさらされていた。ちょうどこの展示会場がある場所も空襲を受けたようで、地図を見ながら当時の様子を思い浮かべた。こうしている内に自分の家から少し離れた所にある防空壕のことを思い出した。東松山にあるのだが、もし自分があの時代に生きていて身内が亡くなってしまい、あの暗いほら穴の中に避難しなければならなかったら、絶望で心が支配されて、生きる希望を失うだろう。
 どうしても今のような平和な時代に生きていると客観的な考えになるが、改めてこうした惨状を見ると、そして主観的になればなるほど平和を望みたくなる。誰であろうと平和を願う気持ちは同じだろう。しかし人間はそうした感情とは別に、欲や恐れといった負の感情も持ち合わせている。こうした感情があるからこそ、いつの世であっても権力争いが絶えることはない。その最たるものが戦争である。議論のみで何の犠牲も出すことなくこうした争いを完結させることが望ましいが、人間は機械とは違い感情や意思を持っている。何もかもを論理的に解決することはできないのだ。恐らく未来にも戦争はあるだろう。それは避けることはできないと思う。しかしそうなってしまった時に人々は踏み止ることが果たして出来るのだろうか?
 戦争を肯定する訳ではないが、昔の戦争は今に比べてまだましだった。家来が君主に仕え、君主を守るために家来同士が戦う。今もそのスタイルは同じだと思うが、科学技術の発展に伴って武器の威力が飛躍的に上がり、もはや家来同士の戦いではなくなってしまった。その科学技術の産物が核兵器である。これによって罪の無い人々が数え切れない程亡くなった。また、それに被爆して今も苦しんでいる人だっているはずだ。放射線の影響はその子供にも受け継がれ、その被害は世代を超えて広がっていく。いかなる理由であれ、こんな事は許されない。
 原爆の引き起こした悲惨な状況をジョー・オダネル氏の写真によって伺い知ることが出来た。荒廃した街に焼け爛れた人々・・・地獄絵図とはまさにこのことだ。武器庫の骨組なども熱で溶け、ぐにゃりと曲がっている。どれを見ても悲惨な光景だった。
 今まで戦争にまつわる話は沢山聞いてきたが、自分で調べてみることで具体的なものが掴めて良かったと思う。
10 ●行った日 12月21日(水)
●会場にいた時間 約100分
●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと 等など

  写真は多くを物語る。並べられた空爆前、中、後の写真。 投下中の爆弾が映っている写真は衝撃であった。 無残な白い姿の街。そして、隣に並べられた、 失った部分が赤く塗られた地図。 むごい。恐らく、ここへ来た人はそんな感想を持つだろう。
  現にアジア太平洋戦争中はこのようなことがあったのだ。 自分達が生まれるずっと前、この東京でも。 地図もそれを示す。見慣れた地名がある。 写真を見ながら当時の記憶を話していた老翁も居た。 彼らにしか知り得ない戦争のようすもあろう、写真や 解説などででなく、彼らの記憶や声も後世に伝わればと切に思う。

  話を戻して、我々に訴えかけてくる種々の図。 この惨劇をもたらしたのは何か?戦争。 ここですぐに反戦の話へ持ち込むのは簡単だ。 もちろん自分だってそう思っている。戦争が齎すものは害悪である。 よく言われるのが、過去の歴史の反省、である。 口で言うのは簡単だが、過去の歴史といっても 膨大な量といろいろな見方がある。 過去の歴史は自分でよく考えて、そして知らなければならない。 歴史は多くを教えてくれる。
 しかし、気をつけなければならない。 何に?その史観である。ウヨク、サヨクと呼ばれる人々(敢えて 右翼、左翼とは区別させていただく)、彼らのプロバガンダを そのまま鵜のみにすれば偏ったイデオロギーを持ってしまう惧がある。 そうでなくとも、一つの立場に立って見るとどうしても傾く。 歴史の真実は一つだが、それは多面的である。 それをきちんと認識できるように勉強しなければならない。

 ジョー・オダネル氏の原爆関連の写真は印象に残っている。 原子力等の問題はここでは述べないが、 少なくとも核兵器は使用してはならないと断言する。 戦争を終わらせるために必要だった、とは言えないだろう。 しかし、多くの人民の命を奪った原爆を投下した、また大空爆を行った、 そのアメリカはこの点で大きく反省しなければならないだろう。 細かい点で言えばその他あるがここでは割愛する。

  また、「勝てば官軍負ければ賊軍」というか、戦勝国と敗戦国の 軍事裁判での落差はひどいものがあった。 原爆を使用した点について言ったが、深くは言わないが ここまで負ける戦争を続けていた日本の軍部の中の人物にも 責任がある。戦場での餓死であるとか、鉄の棺桶とでも言おうか、 稚拙な戦車など、日本の装備の甘さ、また戦況の悪さは 途中から分かったはずだ。

 「国の為、天皇の為」そう言って 突撃をした兵士には心打たれるが、同時に国体護持などと言って若い兵士や 多数の市民らが犠牲になったことは遺憾だ。 侵略戦争、侵略者の見方もある。 また、自存の戦争、解放者という見方もある。 どちらが、というのではない。両方である。 本当に、歴史はいろいろな面を持つ。 そして知るほどに、自分が毫も知らないことを痛感する。 色々な角度から見てみよう。 そして歴史から学んだことを未来に活かすのだ。

今回の展示は今まで文章などで知っていた戦争についてを 地図と写真で具体的に見ることができて実に良かった。
11
12 ●12月22日
●100分

 正直ありきたりな感想だとは思うけど、すごかった。
 爆撃後の写真にもある程度のインパクトはあったが、それが爆撃前の写真と並べておいてある事によって、自分の想像がいかに足りていなかったかを思い知らされる。
 最初は、少しはしゃいでいた。自分の家の近くの地図があると、自分の家はどの辺りかなんて探すなんていうガキみたいなことをしていた。だが、白黒の写真で上空からの写真を見てからは、そんなよけいな事は考えなくなった。写真の中にある、白黒の世界、一枚にはあるはずのものが、もう一枚の方には何もない。これが一瞬の出来事なんていうのが信じられなかった。
 ジョー・オダネルさんの写真も、(言葉足らずで本当申し訳ないが)とにかくすごかった。
 特に一枚。大通りか何かの写真で、歩道の植え込みの木を真ん中に周囲のようすを撮っている写真があった。これを見た時、自分は、「なんかゲームかアニメの中の荒廃した世界みたい。」と素で思ってしまった。
 道路脇には、壊れた建物すらほとんどなく、残骸だけ。
 木も一応残ってはいるものの、歩道のブロックが外れていたり。
 人なんかほとんど見当たらない。とにかくすごい写真だった。なさけない事だが本当にその”荒廃した世界”のイメージにぴったり合ってしまった。あんな光景が実際にあったものだとは、考えられないし、考えたくもない。

 最後にこの展示とは、何も関係ない話だが、自分が通っている塾の先生が、「親は子供に、戦争をしちゃいけない、というだけじゃなくて、自分が戦争に賛成か反対かをしっかり言って、どうしてそうなのかをはっきり言うべきだ。飛行機に乗るのが、かっこ良くて好きなら、それをちゃんと言うべきだ。」といっていたのを思い出した。それを聞いたときは、そういう考え方もありなのかなとは思った
 しかし、あの写真の数々を見た後では、とてもそんな事は言えない。自分に嘘をついてでも、やっぱり戦争は二度と起こしては行けないと思う。
13  『戦争は罪なき人が犠牲になる』とか、『戦争はおこしてはいけないこと』とか色々言われていますが僕は戦争を経験したことがないので『センソウはいけないもの』としか認識していませんでした。
 「地図と写真で見る日本の空襲」展に行っ
て僕が思い描いていたセンソウとは遥かに違っていた戦争を写真や地図で見ることができたおかげで戦争とはどういうものなのか、以前よりもはっきりとイメージすることができました。
 自分一人の力で戦争はとめたいけれど、現実問題そういうわけにもいきませんが戦争へ対する憎悪と戦争へ対する新たな意識はずっと持ち続けよう、そう思いました。
14  自分は、戦争がいかに悲惨であったかを知るには、地図を見ているよりも、直接写真をみてみたいと思ってしまうため、写真のほうを主に重点的に見た。
 まず、1階で、自分は地図を見て、自分の家がどの辺りにあるのかを探した。すると、自分の家のほうは、あまり被害にあっていなかったことがわかり、また当時は代々木上原ではなく、代々幡上原という地名であったのに驚いた。
 さらに、二階では、両祖父母の出身地である三重や仙台などについて、詳しく見ていた。そして、祖父の家の地価kぅ煮、造船工場のようなものがあったのがわかり、戦争の激しさを想像できた。また、自分の祖父は長崎で原爆の被害にあっているので、長崎の空中写真や被爆後写真を見て、以前祖父が自分に話してくれた体験が、いかにつらいことであったか、というのが身にしみて感じられた。
 展示には、実際に戦争の被害にあわれた老人方も見にきていて、戦争の写真を静かに眺めているのが見受けられ、特に、ある老人が、船の沈没記録を見ながら、「自分もこれに乗っていた。」と隣の人に言っていたのがとても印象的であった。
 最近は、戦争を後世に伝えていこうとする動きがあり、いろいろな場面で戦争の写真を見る機会はあったが、今回この様にして地図という視点を含めて見ることができたので、戦争に対する知識を深めることができたと思う。
15 ●行った日 12月24日
●居た時間 50分
●見て感じたこと

 予想通りの内容だった。去年広島に行ったのでこういう場の雰囲気は慣れているつもりだったがやはり行ってみるとそれなりの雰囲気は感じた。広島の原爆は何度見ても恐ろしい、同じ人間をここまで変えてしまう兵器があるのかと感じた。しかもその人間を変えているのは人間自身が作ったものだ、人間は操りきれない力を持つのは不正解だと改めて思った。また、おそらく全日本国民が思っているであろう、この惨劇を再び繰り返してはいけないということ、何回感じても感じ切れなかった。訴えかけるような人々の写真、町の写真、目に焼き付けておきたい。
 東京の空襲前後の写真は想像以上のものであった。空襲の凄さと、色々な意味で人の力を感じた。破壊する力、何もかもがなくなった町から2005年現在の今の東京まで復興させる力。無残なモノクロの町はそんなものを感じさせてくれた。またアメリカの爆撃目標地リスト(?)。何がアメリカの軍にそうさせたのか、誰も反対しなかったのか。歴史は難しい。
 そしてこれらの写真や地図は私に何を訴えかけてきたのか、私は生まれてから今の今まで平和に暮らしてきた。銃声など1度も聞いたことないし、爆弾ももちろん見たことすらない。そんな私達は簡単にサバゲーとか言って本物に似せた銃で撃ちあう、不意にそんな私達が不甲斐なく思えてきた。もうこのような写真や地図を二度と作らせないために。
 テレビや写真でもこれだけのものを私達は感じる。では実際そこにいた人々はどうなのであろうか、想像すると体が震える。
 また戦争は人の心にも傷を作る。私の母方の祖父は疲れているとよく機関銃掃射する戦闘機に追いかけられる夢をみるらしい。それは実体験が再び蘇ってくるものである。また、実際戦争は私達にも写真という形で心に何かを作り上げる。誰にもそういう心はあるはずだ。しかし人々は時に怒り、欲望、または別の複雑な何かによって戦争を起こしてしまう。これは今後も止まらないだろう。それを周りが、どう対処するか。どう考えるかであるだろう。そんな精神を持っていたであろう山本五十六さんを私は忘れない。
16 ●行った日 12/22
●会場にいた時間 約100分
●見て思ったこと  

 行った当初は軽い気持ちで行ったのだが、衝撃的なモノを感じた。
 大きな地図がメインだ、とばかり思っていたのだが・・・なるほど、確かに噂の大きな地図があった。確かにあれはでかかった。

 しかし、それ以上に空襲時の写真の方が激 烈であった。そして被災部分を示した、ほぼ全域が真っ赤に染まっている地図。地図 を先に見たのだが、地図を見た時には大体の範囲で塗っているのだと思っていた。し かし、写真をみると嘘では無いんだと言うことが受け止められた。まさに爆撃をして いる最中の写真もあった。その写真は爆撃前→爆撃中→爆撃後と3枚の写真で1セッ トになっており、立派な建物連が跡形もなくなるその写真達が、いかに空襲が恐ろし いものかを物語っていた。

 なかでも原爆の写真と地図は衝撃的で、広島が原爆投下地を中心に真っ赤に染まって いるのだが、改めてこれだけの広範囲を一瞬で破壊したのだという事がわかった。

 地図を介して、より空襲の恐ろしさが分かった一番の所はNHKのビデオだったと思 う。あちこちの住民が必死になって避難場所を目指している移動地図などが頭に残っ た。インタビューのシーンは言うまでもなく。 それにしても今の日本は、戦争放棄をしていて本当に良かったと思う。戦争の残酷さを再認識できた閲覧だった気がする。
17 ●行った日 12月22日
●会場にいた時間 約100分
●感想
 
これまでは「戦争」と言われても、自分の目で見たわけでもなく実感を持つことが出来なかった。しかし、そんな漠然としたイメージをはっきりさせてくれたのが今回の展示であった。
 その中でも、印象に深いのがジョー・オダネル氏の写真である。彼の写真の一枚一枚は伝えたいメッセージのようなものをはっきちと持っていて、写真と向き合うことでそれを強く感じることが出来た。「亡くなった妹を背負って直立している少年の写真」では小さな命が奪われる残酷さや罪の無い人間が悲痛な思いをすることの不条理さが感じられ、「正面の壁面だけが残った教会の写真」では爆撃の規模の大きさや言葉も出ないような絶望感が伝わってきた。
現在の日本は平和だが、過去には毎日”死”と隣り合わせの暮らしをしていた時代もあったのだ。そんな過去をこれから先の未来に繰り返しては絶対にいけないし、そのためにも戦争について自分たちもきちんと意識を持っていくべきだと思った。
18 ●行った日:12月22日(木)
●会場にいた時間:100分
●見て感じたこと

 今年は戦後60年ということで、戦争に関するテレビ番組が多 く、僕もそれらの番組を見る機会が多かった。その番組を見て いると、家族と別れを強いられたり、飢餓に苦しんでいる場面 があり、とても悲しい気持ちになった。
 しかし同時に、それら があまりにも今の日常と離れているため、それが実際に起こっ たことだという実感がわかなかった。

  しかし、この展示を見てからは、そういう恐ろしいことが実際 に起こったことだということを認識できた。特に印象に残って いるのが「ジョーオダネル写真展」だ。原爆の熱によって白骨 化した人の写真や、背中がケロイドでただれている写真などあ まりにもショックだった。目をそむけたくなったが、原爆の恐 ろしさを教えるための写真なのだと思って、しっかり見た。
 も う一つはNHKの戦争経験者が語っている番組を見たことが印 象に残っている。戦争経験者の方々の描いた絵や話はとても現 実に起きたこととは思えないくらいひどいものだった。家族や 友人など、たくさんの大切な人を失う辛さは、耐え難いものだ ったと思う。 人々がこれほど苦しむ戦争は、もう二度と起こしてはならない と改めて認識した。
19  この展示を見てまず空襲のすさまじさに驚きました。全国各地の軍事施設や工場、都市が標的にされたという、規模の大きさを改めて認識させられました。また、全国各地の死傷者数をまとめた大きな表を見ると、そこには数十万人という、想像もつかない人数が書かれていて、とても沢山の人が亡くなったのだ、という事実を突きつけられました。
 この展示では、普段なかなか見られそうもない、東京大空襲の被害詳細についての資料もじっくり見ることができました。当時の東京には、僕の祖母一家が住んでいたのですが、その家のあった錦糸町、亀戸のあたりの地図は、焼き払われたことを示す赤い色で塗りつぶされていました。祖母は空襲当時、学童疎開をしており、家にいた家族も無事だったそうですが、その真っ赤な地図を見て、僕は、空襲は決して自分と無関係な出来事ではない、ということを強く感じました。
 東京大空襲についての展示以外にも、空襲や原子爆弾などで崩れ去った町や、親を失った子供たちを映した写真など、心を打たれる展示が数多くありました。
 少しでも多くの人にこういった展示を見てもらい、年配者からお話を聞いてもらって、日本の空襲について考えてもらえればと思いました。
20 ●12/21 
●50分

 私たちは原子爆弾や戦争に対する脅威を知っていなくてはいけないが、それらに関する論争を盲目的に受け止めることも同じくらいいけない。例えば、戦争に関する特番などによくみる被爆地の写真や証言を並べ、戦争反対を訴えることは必ずしも無意味とは思わないが、これはあまり建設的でないという点で、何も考えずに例えば自然保護をうたうことによく似ていると思う。戦争に関するテレビドラマを観ても思うことだが、かつてその中で一度でも‘凄惨な戦争’もとい、‘凄惨な戦場’が描かれたことがあっただろうか。それらには、滑稽であるという印象すら受ける。
 別の例を挙げると、2005/8/10の長崎県版朝日新聞によると、長崎市岡町の長崎原爆被災者協議会で9日、「広島・長崎――原爆投下の意味を考える」と題したシンポジウムで、福岡大学の名誉教授である西嶋有厚氏は「米国ではいまだに原爆投下が人々を救ったという考えが根強い」とし、アメリカン大のピーター・カズニック教授は「米国民の33%が原爆の最初の投下地を知らない」という最近の調査を紹介したという。(二度引きになってしまった。)これだってさほど驚くことではないのかもしれない。例えば、アメリカ映画では核爆弾は正義の道具として最後に地球を救うというのが常ではないか。
 「地図と写真で見る日本の空襲 きく・まなぶ・つたえる」という展示だったが、真っ赤に塗られた地図や、広島と長崎の原爆投下前後の写真が必要なすべてを語ってくれた。
21 ●12/24 
●80分
 
  私は「空襲」といったら、東京と沖縄、そして広島と長崎の原子爆弾しか聞いたことがなかったし、 空襲を受けたのはその地域だけだと本気で思っていた。しかし、展示場にはたくさんの被害分布地図 が展示されていた。よく見ると、東北地方や北海道の地図まであった。また、アメリカ戦闘機の任務 の表を見ると、ほぼ毎日のように何十もの戦闘機が空襲命令を受けている。こんなにも頻繁に空襲を 受けていたのか、と呆然とした。東京大空襲や原子爆弾などの莫大な被害の出たことばかり伝えられ ているが、それ以外にもたくさんの地域と人が被害を受けたようだ。改めて、自分が戦争について何 も知らないことを実感した。

 もうひとつ感じたことは、日本はこの空襲を受ける前に何をしたのか、ということだ。今回の展示は 「日本はこれだけ被害を受けた」という内容であった。これを見た大半の日本人は「日本は莫大な被 害を受けた、さぞ大変だっただろう」と思うだろう。確かに、日本の受けた被害は計り知れないほど 大きい。しかし、もしもこの展示を東南アジアや韓国などかつて日本に征服された人々が見たらどう だろうか。「何を被害者ぶっているんだ、日本はもっと残酷なことを我々に平気で行ったじゃないか 」と思うかもしれない。

 このような「被害を受けた」展示は各地で行われている。中学校の教科書にも詳しく掲載されている 。しかし、過ちを二度と繰り返さないためには、被害を受けた前に日本が犯した過ち「日本が何をし た」のかを知る必要があるのではないだろうか。

 過ちを犯すことが過ちではない、それを認めて直そうとしないことが過ちなのだ
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24  空襲の展示物で一番心に残ったものは、空襲の被害にあった場所の写真、状況の地図よりも、火葬場の方向に向き弟を背中におんぶし真っ直ぐ立っている男の子の写真に私は心を強くうたれた。以前私が見ていたテレビでも紹介されていた写真で、アメリカの兵隊の写真係みたいな人が撮った写真である。写真に写っている男の子は、亡くなった自分の弟を火葬場に入れ1滴も涙を流さず火葬が終わるまでずっと見ていたらしい。この男の子は何て強い子なのだろうか、と思った。私だったら、その場をすぐ立ち去ってしまうか泣きじゃくって見ているだけだろう。何を思って、その火葬場を見ていたのか・・・しばらくの間その写真を見ながら考えたが、想像できなかった。ただ1つ分かったことは、この男の子が死をちゃんと自分に受け入れ、焼かれていくのを最後まで見届けることが出来る強い心の持ち主であるということである。この男の子は現在見つかってはいない・・・もし会うことが出来るならこの時に立っていた思いをぜひ聞いてみたい。

 また、私の家族は70を過ぎる祖母と同居していて、祖母は空襲の経験者である。そのためにとてもリアルな体験談を聞かせてもらっている。この展覧会で空襲に関する多くの資料を見ることによって、さらに詳しく空襲について知ることが出来たのでとても良い経験になった。

 展覧会の話ではないが、私はあるテレビ番組で空襲についてアメリカ人の中には悪いとは思っていないという人がいることを知った。そう思う理由には日本とアメリカの歴史の中にあった。それは真珠湾戦争。その戦争でアメリカは日本に奇襲され「Remember Pearl Harbor(真珠湾を忘れるな)」というスローガンを掲げたそうだ。この事実を知って私は、日本人は自分たちだけが可愛そう。アメリカ人は悪いなどばかり言ってはいけいのでは?、と思った。
25  戦争に関する展示はあまり見に行ったことがなかったのですが、想像以上に大規模な展示で行った甲斐がありました。今回のレポートは、私の中の戦争に対する考え方を変えたように思います。小中学生の頃は授業で戦争について学んでもあまり実感が沸かず、祖父母から戦時中の出来事を聞く機会もほとんどありませんでした。戦争や爆撃は、私にとって遠い昔の人が経験した単なる歴史の一部にしかすぎなかったのです。でも今回展示を見て、はっきりと“戦争は怖い”と感じました。たくさんの人が死と隣り合わせに生きていたことを知って、今こうして何の不安も感じずに家族で暮らせることがどんなに幸せかわかりました。
 航空機が写っている写真を見ると、爆弾を落とした人はどのような気持ちだったのかと少し考えさせられました。私は、爆撃を受ける方の気持ちを考えると爆弾なんて落とせないと思うし、燃える町の様子を写真に写すことなんてもっとできないと思います。しかし一方で、自国のために尽くしたいという思いも生まれるかもしれません。でも、何かのために尽くすことと、皆が幸せでいられることは決して正反対ではないと思います。私達一人一人ではどうにもならない問題ではあると思うけれど、皆がそう思う日が来れば、平和な世界を築けると思います。だから、私は地球の住人の一人として、今日のこの気持ちを忘れないでいたいです。
26  この日本の空襲展を見に行って、初めて知ったことがとてもたくさんあった。
最初の部屋には昔の地図がたくさんあった。日本人が書いたのもあったが、米軍が書いたような、英語でまわりに少し書かれていたのもあって、びっくりした。日本のことをしっかり調べて、準備がしっかりされた状況で米軍は日本に攻撃したことがよく分かった。また、皇居の近くや、特に大きな工場などに空襲が落ちていたのにおどろいた。空から撮った写真で、空爆が落ちる前と後とで比較されていたのもあって、空襲の威力がどれだけすごいのかが本当によく分かった。
 また、写真には、空襲を受けた地域のひどさがたくさん写されていた。特に、小さな子供がたくさんいて、とても心打たれた。どんなに小さな子供でも、自分より小さな子の面倒を見なくてはならないという辛い生活を、もう二度と誰にもさせたくないと思った。小さな子供達の写真や怪我を負った人の写真を何枚も見て、とても考えさせられた。
日本は唯一原子力爆弾を受けた国なのだから、そのひどさ、威力を何年経っても消え失せることなく受け継がれていくべきだと強く思った。
27 ●12月20日(火) 
●50分

 空襲―戦争について調べたり、聞いたりする機会は今までに何度もありました。だけ ど誰かに聞かれたらしっかり答えられる自信はありません。今回も初めは、正直面倒 くさかったです。忙しい中遠いところまで行かなくてはいけなくて。

 私はもともと地図が苦手だから今回も地図にはあまり興味がわきませんでした。けれども、上野や両 国、祖母とよく行く櫻木町に後楽園など、知っているどころかとても身近な街が今と は全く違う様子で写されているのを素通りする事はできませんでした。雪の白と何も 無い黒が同じ写真の中にあるということ、また、広島をはじめとした赤で表された戦 災概況図は妙に生々しかったです。

 一番印象に残っているのはやはりジョー・オダネルの写真。日本上陸前に米軍船上でミサが行われていたのには驚きました。カメラの 前でポーズをとる米青年の笑顔と「この先何をしてしまうかなど何も知らなかった」 という言葉にやはり同じ人間なのだと感じました。だからこそこの出来事を忘れては いけないのでしょう。

 また米兵から何かを受け取る少女を見守る姉らしい少女の微笑 む口、亡くなった弟を背負う少年がぐっと口を結んでいるのを見て、涙が浮かんだの は私だけではないはずです。見た事のあるものもあったけれど、子供の姿に心動かさ れるのは世界共通なのではないでしょうか。

 最後に、展示された米軍の爆撃機を見つ める老人が「これだよ、これ」と憎らしげにつぶやいたことや、懸命に図を説明する 老人に、何も考えずにここへ来た自分を情けなく感じました。もっと学ばなくてはと思わされました。
28 ●行った日  12月24日(土)
●会場にいた時間  約60分
●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと 等など

 展示を見て感じたことは、やなり戦争は怖いということです。いろいろな場所の空襲前と空襲後の写真があり、その違いは歴然としたものでした。町が丸々全部なくなってしまうくらいなのだから、人間が受けたらひとたまりもないと思います。工場や製鉄所などが跡形もなくなっている写真もあり、日本の軍事力に関わるところは狙われやすかったのだとわかりました。その近辺の住人はその工場などで働かされていただろうし、そのうえ空襲にもあうなんて、国民が一番の被害者だと強く感じました。
 また、戦災にあった地域が赤く色分けされている地図が多く展示してあり、日本で大きな空襲を受けた場所は東京、広島、長崎くらいなのかと思っていましたが、そんなことはなかったのだとわかりました。たくさんの都市の地図が赤色で染まっていて驚きました。
 展示場で一番印象的だったのはジョー・オダネルさんの写真展です。なかでも戦時の子供たちの写真は心に残りました。1つのものをみんなで分け合う戦争孤児たちや、涙1つこぼさず死んでしまった弟を背負いながら直立して火葬の順番を待つ少年。そんな子供たちの写真を見て涙が出そうになりました。子供なんて何の心配もしなくていいはずなのに、生きることを考えながら毎日を必死に生きていたのだろうと考えると、なんだか悲しくなりました。
 日本がアジア地域を描いた地図がたくさん展示されている所では、展示場にいた関係者の方から地図の図法の説明を受けたり、日本の地図が最近アジアの国から昔の研究の参考にされていることを教えていただきました。その当時には自国のために作ったものであったとしても、時がたった今他の国の役にたっていて、地図はすごいと思いました。
 展示を見に行ったことで新しく知ったことが多くあったし、戦争について改めて考えさせられたので、行くことができてよかったと思います。今日本にある平和は昔の戦争があってのものだけれど、戦争は絶対にあってはいけないものだと改めて痛感しました。
29 ●行った日   12月21日(水)
●会場にいた時間 約90分
●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと
 私が一番印象に残ったことは、「戦争はなんて残酷なんだ」ということと、「戦争に地図は不可欠で ある」ということだ。東京都多摩地区の中島飛行機武蔵野製作所の空襲前、ターゲットワークシート 、空襲後の上空写真と地図を見た時は唖然とした。アメリカへの攻撃に使われる飛行機を製作する工 場を予めターゲットとし、地図を作り、そこに爆弾を落とす。空襲後はそこが工場なんて思えない、 ひどい状況で鳥肌が立ってしまった。

 広島、長崎への原爆投下とアメリカ軍人の日記、「the camera is the eye of history Motthew Brady」 のところをまわった時には、あまりの衝撃に涙が出そうになった。「戦争は残酷なんだよ」。そう言 われただけでは感じない、心の底からの「残酷」を感じた。
 でも、私が感じた「残酷」は、実際に戦争を体験した人の何百分の一にしかならないだろう。戦争が無益であること、今が平和であることを 改めて実感した。

 会場内にはたくさんの地図があった。爆弾投下の為の地図、今どこで何の戦争が起 きているかの地図、そして戦後にどれだけの被害が出たかの地図など、どの地図も戦争のむごさを語 ってきた。
 私は「もし人間が地図を発明しなかったらどうなるのだろう。」と考えた。まず、お互い がどこに住んでいるかは近くにいない限り分からないだろう。そこで小さな戦争が起ころうとも、飛 行機はどこを飛んでいるか分からず、ただがむしゃらに戦い、両者とも混乱して戦争は終わるのでは ないだろうか?地図が戦争を生んだのではないか?そう考えてみたのだが、逆に考えてみれば平和さ え、生まれなかったはずだ。友達がどこにいるか分からない、それどころか自分の場所さえ分からな いだろう。行動範囲は狭いだろう。やっぱり地図は世界を広げるた為のものなのだ。また、地図 のお陰で今日の私は戦争のむごさを知ることができた。地図がなかったら「あぁ戦争は残酷なのですね」で終わってしまった。地図で戦争のむごさを知り、人々が反省して戦争をやめれば、地図は最もよく使われる事を意味すると思う。いろいろ考えさせられた一日だった。
30 ●行った日 12月21日(水)
●会場にいた時間 約60分
●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと 等など

 まず空襲でなくなった人の数を見ていたとき、私の田舎は奈良なのでそこを見てみると、1人と大変少なく、やはり歴史的建築物が多いからなのか、と思いました。そのあたりはアメリカも配慮があったようだと思いました。そして東京で焼けた場所や写真を見ていて思ったのは、まず、(そんなところは見なくてもいいようなところなのですが…笑)昔と今とでは地名が同じところもあるし、違うところもあるなということでした。そのため友人の家付近などは見つけにくかったです。また、どこが焼けたかなど、ちゃんと残って記録されていて、どうやってやったのだろうと興味がわきました。
 次に全国で空襲の被害に遭われたところの話ですが、やはり工場が多いところが多く、田舎や歴史的建築物があるところは少なかったように思います。そして原爆。あの焼け野原の写真を見たとき、正直、この二つは別の場所ではないのかと思いました。“何にもない”というのはこういうことなんだ、と思いました。写真は多くを語る、といいますが本当に一目でわかりました。これでのし第3次世界大戦が起こってしまったらどうなるのでしょう。世界中があんなことになってしまったら再生をまたずに地球は滅亡します。断言できます。再生しようにも材料も人でも何にもないのだろうと思います。

 私は実際に原爆や空襲を体験したことはありませんが、祖母に空襲の話を聞いたとき、これは本当に死ぬかも、と思ったそうです。そんなことを人々にまた体験させてはいけないと思います。天災ならば起こることを止めることができないのはしょうがないと思います。だから被害を最小限にしようと防ぐのです。しかし戦争はどうでしょう。人が、しかも国を動かせるほどの権力の持ち主が他の国を捕ろうなんて欲を出さなければいいだけの話です。その人1人のためだけに多くの命がなくなるのです。だったらその人に死んでもらった方がまだましです。

 そして最後にホールにあったTVを見ていましたが、あんなにつらいことをするのなら権力者一人、あるいは数人の死なんてどってことない気がします。厳しいことをいうようですが戦禍の人達はもっとつらい体験をしているのだと痛感しました。そして最後に、戦争は二度と起こしてはいけないと思いました。
31 ●行った日 12月21日(水) 
●会場にいた時間 約45分間
●見て感じたこと
 アメリカの空襲ターゲットのリストを見て唖然としてしまった。1944年には軍事的な施設のある場所しか挙がっていなかったのに、1945年になると○○市街地という文字が延々と並んでいた。軍事的な施設のある場所と被災地が色分けしてある地図を見ると、軍事的な施設がある場所でも空襲を免れている地域があるにもかかわらず、市街地は跡形もなく消えていた。
 ジョー・オタネル氏が撮影した写真に、死んでしまった弟をおぶり、火葬の順番を待っている少年を写したものがあった。まだ幼い少年がピンと背筋を伸ばして直立していたのだが、彼の表情には悲しみがにじみ出ていた。彼の目には、人が焼かれている光景が映っているのだろう。自分よりずっと幼い少年がこんなにもつらい思いをしていたのだと思うと涙が出そうになる。原爆投下前後の写真から、原爆は本当に何もかもを壊してしまうことがわかった。アメリカの原爆投下の理由は、原爆を使わなければ日本軍にやられてしまう、というものであったが、どう考えても日本の敗色濃厚でだった。電柱を倒し、茂みから少し出して大砲に見せかけいるところを写した写真があったように、既に日本には武器はおろか戦う力すらなかったのである。アメリカはこんな見せ掛けの武器に脅威を感じていたのだろうか。
 市街地への空爆や原爆ど、戦争の犠牲になるのはいつも罪のない民間人である。正しい戦争などない。戦争自体が間違いであっとのである。
32 ●行った日 12月20日(火)
●会場にいた時間 約270分(四時間半)

 日本はアメリカとの情報戦争に負け、戦争に負けたのではないだろうか。
 会場に展示してあった航空写真はほぼすべてアメリカ軍が撮影したものである。
まず日本家屋を研究。そして、木と紙でできた日本家屋をより焼き尽くすのに爆弾より効率のよい焼夷弾を製造し、日本全国を火の渦に巻き込んだ。さらに3月10日の東京大空襲に限っていえばアメリカは、下町の町全体の模型までつくっていたという。そうして、いかにすれば街を効率よく焼き尽くすことができるのか考え抜いた末、実行に移したというから恐ろしい話である。
 空襲前、中、後の航空写真が撮影された『中島飛行蔵製作所』に勤めていた方の話を聞くことができた。かれは連絡係として常に会社にいなければならなかったため、十何回もの空襲を経験したそうだ。だが、何回か空襲にあったのちはなれてしまってさほど怖いなどとは思わなくなった。という。これは一つの例だが、戦争などの異常事態になんども直面すると、悲しい事に人間は本来の感覚を失ってしまうのだ。
 ジョー・オネダル氏の写真は何度もテレビで拝見したことがあったが、こう改めてみると心に刺さる。彼が撮影したある写真の下に添えられあ
「My God great the Nagasaki be the last atomic wildeness in the history of the world」
という想いが心に響いた。

 今回の展示は日本が受けた被害についてが主体であったが、侵略された立場からの見解も学ぶ必要があるだろう。両者の立場などを理解しなければ本当の解決にはつながらない。
 血まみれの歴史はくりかえしてはならない。
33 ●12/21(水)
● 80分

 戦争に関する展示で、このように地図を大きく取り上げているものは初めてでした。焼失区域が赤く塗られている地図や、死者数、仮埋葬の統計を地化したもの、アメリカが攻撃の標的とするところを黒く塗った地図などを、空襲前と空襲後の写真とともに見て、その威力と恐ろしさを知りました。
 当時家から離れた所にいた人が自宅付近の様子によって地図から情報を得ていたと書いてあって地図は重要なものであったんだと思ったけれど、アメリカは地図で正確にターゲットを決めることができていたということは恐ろしいです。
 地図は今の私たちの生活のなかで実用的なものであるけれど、歴史のなかの後に伝えていくべき出来事を伝えていく手段の一つにもなるのだと思いました。普段なかなか見ることのできない資料がたくさんあり、いい展示会でした。
34 ●行った日:12月23日(金)
●会場にいた時間:約60分
●見て感じたこと,思ったこと,考えたこと 等

 建物が沢山並んでいる写真の隣には、何もなくなった空っぽの写真があった。眺めていると、組み立てた積み木をただ片付けたように見えたが、そうではない。これは、本物の街であり、ここには人の生活があったのだ。地図にあった沢山の見慣れた地名を見て、これらの写真が実際に日本で撮影されたものなのだと改めて思わされた。想像するだけで恐ろしい。突然、自分の周りのものすべてが消え失せてしまうなんて。今の私たちには考えられないが、当時の日本ではどこでも起こりえたことなのだ。すべてがぶち壊された。しかも、同じ人間の手で。とても悲しい気持ちになった。
 中には空爆中の戦闘機が写っている写真もあった。この人たちはどんな気持ちで爆弾を落としていたのだろう。この写真の撮影していた人はどんな気持ちだったのだろう。そして、当時の人たちはどんな気持ちで、何の為に戦争していたのだろう。結局、戦争が齎したのは沢山の被害と、人々の心に残された大きな傷だけだったではないか。

 今回の展示で日本が多大な被害を被っていることがよくわかった。写真や地図は文字では伝えることのできない沢山のことを教えてくれた。しかし、私たちは日本が受けた被害ばかりでなく、日本も他の国に対して同じか、それ以上の酷いことをしていたということをしっかり認識しなければならない。日本も他の国をぶち壊していたと考えるともっと悲しい。日本は自らの侵した罪にもっと正面から向き合うべきではないだろうか。そして、それをもっと教育に反映させるべきではないだろうか。戦争について、ただ いけない というだけではなく、 正しい理解をして後世へ伝えていきたいものである。

 余談だが、京王線で誤って快速に乗って調布まで行ってしまったこともあって、会場までなかなか辿り着けず、私は正直、何でこんなところまで見に来なくてはいけないんだと思っていた。そして、会場に入ったときに一般の方が沢山来ているのに驚き、「物好きな人もいるもんだなぁ」と思わず漏らしてしまった。すると一緒に見に来ていたHさんが「地図や写真を見ながら当時の様子を思い出したりしているんだね」と一言。確かに見回してみるとお年寄りが多い。地図を指差し写真を指差し、語り合っている様子もある。私はそれを見てはっとした。実際にこんな酷い被害にあった人たちがいたのだったと。今では当たり前の平和も、一昔前は全然当たり前ではなかったのだ。改めて今こうして平和な暮らしができていることに感謝したいと思った。
 また、戦争は過去のものではなく、現在進行形だということを忘れてはいけないとも思う。今、この瞬間もどこかで戦争が起こっている。傷つけあい、苦しんでいる人々が沢山いるのだ。このような戦争が少しでも減っていくように、日本はただ"戦争は二度と繰り返さない"というだけでなく、世界に向けて戦争の恐ろしさ、苦しさ、悲しさ、そして愚かさを伝えていかなければならないと思った。

 まとまらない文章になってしまったが最後にひとつ。今回、この「地図と写真で見る日本の空襲」を通して痛感したのは、今まで自分がいかに戦争についての知識・理解・関心が足りなかったかということだ。とても情けないことだと思う。しかし、この展示は私の戦争に対する意識を確実に変えてくれた。今は見に行けて本当によかったと思っている。今回、展示を見ることで沢山のことを感じ、思い、考えることができたので、そういったものを大切にしていきたいと思った。
35  空襲の事と言えば、広島、長崎のことぐらいしか知らなかった。
 これ以外にもたくさん空襲はあったんだろうなぁとは頭の片隅で思う事はあったけど、まさかこんなにたくさんの空襲があったとは思わなかった。
 やっぱり、造船所とかが多く攻撃を受けていた。同じ工場に何回も爆弾が落とされていたり、惨すぎる。
 それに、その工場で働いている人もすごいと思う。いつ爆撃されるかわからない状況にいるということは、相当つらいと思う。
 展示会は、同じような地図ばかりで、実は途中で飽きてしまった。空襲の悲惨さは充分伝わってきたが、名前の通り、本当に地図だらけで見るのが大変だった。
 あの大きい地図にはびっくりした。すごい。
36 ●行った日:12月23日
●いた時間:60分
●感じたこと

 この展示を見るまでは、「地図で戦争の何が分かるのだろうか」という疑問があった。戦争を題材にした本や映画と比べたら、伝えられるものが少ないように思っていた。しかし、実際に見てみたら、地図というのは実際にある土地を忠実に再現したものだから、逆にリアルだった。自分が住んでいる所の地図を眺めているにつれ、自分が住んでいる街が大空襲の被害に遭い、その地面には多くの人の血が流れた、という事実を改めて感じた。また、地図を実際に頭の中で景色として組み立て、いろいろなことを想像することができた。どのような人がどのように暮らしていたのか、そしてどのような最期を遂げたのか・・・
 「日本が敗戦を迎えたことで国家体制が変わり、自由な国になった」という主張もありそうだが、日本が戦争を得たものに比べると失ったものは大きすぎる。戦没者何名、とか数字で数えられるものだけではない。人間が戦争をしたという事実は確実に存在し、それを消すことは出来ないのだ。だからこそ、世界中の人々が、「二度と戦争をしない」と願い、未来に希望を託しているのだと思う。
 第二次世界大戦という大きな戦争が終わり、世界は平和になったかのように見えるし、戦争は過去の事として捉えられている。しかし、内戦や無差別なテロなどは絶えることがない。戦争はまだ終わっていない。大きな平和ばかりに目を向けてはいけない。たった今起こっている小さな戦争に見向きもせず、通り過ぎていたら、本当の平和が訪れることはないと思う。
37
初めに感じたことは、戦後から約六十年たったのに今でも、このような展示を開くんだな、と思いま
した。六十年たったのなら良いではないか、たかが六十年されど六十年でもあるということをこの展
示場で思い知らされました。私が一番印象にのこった展示は広島、長崎の写真集でした。その写真の
したにはコメントが添えられており参考になりました。死んだ弟を背負った少年の唇をいっぱいにか
んだ顔、米軍兵にお菓子をちょうだいとねだる子供たち、どの写真も戦争の人々のさけびを表してい
ました。また、原爆前、中、後の写真も拝見しました。前と後を比べると、建物が跡形もなく消えて
いることがわかりました。残っているのは学校や川だけでした。これを見て私はかわいそうとかを思
う前によくわからないショックを受けました。たった一つの爆弾で、ここまで何もかもが壊れてしま
うなんて誰が想像できましょうか。ひとつのものがたくさんの命とまだこの世ない命までも奪ってし
まったのです。私は戦争なんてもう二度と起こしてはならないと改めてそうかんじました。
38 ●行った日   12/20 (火)
●会場にいた時間 

  約90分 空襲における戦災地図が残っていることにまず驚きました。しかも、今でいう47都 道府県の中の細かい地域の戦災地図だったのでさらに驚きました。これらを見て分 かったことは、やはり人口の多い都市が空襲の被害が大きい、ということです。人口 の多い都市は空襲の影響を受けやすいので狙われやすい、ということは知っていまし たが、これらをみて、それを実感することができました。しかし、疎開してくる人が 多いと思われる地域でも空襲の被害を受けているところがあったので、「疎開の意味 が無いのではないか」と思ってしまいました。疎開先でも空襲の被害を受けてしまう ことから、戦争の残酷さが伝わってきました。

 戦争の残酷さが伝わってきたのはこれだけによってではありません。空襲前と空襲後 の上空から撮影された写真を見比べてみると、空襲後の写真に写っている建物が明ら かに崩壊しているんです。短い時間で都市が崩壊してしまうことに、なんだかむなし さを感じました。

 展示の最後のほうに、ジョー・オダネルさんが撮影した写真がいくつかあったのです が、その中で一番印象に残っているものは、“既に死んでしまった赤ん坊を背負っ て、気を付けの姿勢で立っている少年”の写真です。この写真は以前にも見たことが あったのですが、特にその少年の“目”が印象に残っています。というのは、きりっ とした目つきのような気がするのだけれども、現実を受け止めたくない、とでも言う ような目だったからです。この少年以外にも、写真に写っていた人々の表情はどこか 寂しげだったと思います。やはり人々は戦争によって傷つき、それが表情に出たので はないのだろうか、と思いました。

39  今日は、私の人生の中で一番長い時間、そして一番多くの地図にふれた日だと思います。行く前はあまり乗り気ではなかったのですが、行ってみるとたくさんの資料があり、多くの人が当時の体験を語ってくださったり、細かいことを説明してくださったりとても役に立ち、考えさせられました。
 まず、入ってすぐのところにあった「(都)道府県空襲被害」を見て、戦争の被害は、広島、長崎、東京がほとんどでほかのところは、そうでもないと思っていた私の考えが間違っていたことに気づかされました。日本のほとんどの地域が空襲を受けていると驚いていると、当時を知る方が最初は工場のあるところや、主要都市だけを狙っていたが、最後は戦意を喪失させるために無差別に攻撃していた、唯一除かれたのは奈良や京都の重要文化財がある場所くらいだと話してくれ、また、次の空襲展示場では、そのころの東京の様子や疎開の話をしてくれました。その展示場にあった空襲の被害を受けた地域が塗られている地図を見ていると本当に被害の受け方が良くわかるのです。皇居はどの空襲でも被害を受けていないから白かったり、逆に飛行機製作所や町工場が集まっている所が真っ赤に塗られていたり、米軍大使館、外国人墓地はそこだけが白く残っていたり・・・。戦争時ゼロ戦を作っていた中島飛行機製作所の数枚のパネルを見ている時のことです。やはり、地図や写真には昔を思い出させる力があるのでしょうか。
 中島製鉄所で働いていたというご老人が、地図や写真を指でたどりながら、一つ一つをゆっくりとかみしめるように当時のことを語ってくれました。「ここから工場に入って、ここで働いていた。工場内は、秘密が漏れてはいけないから地下を歩いて移動しなければならなかったが、本当に大きな敷地で大変だった。・・・この辺りは、ずっと畑が続いていて、この辺には運動場があってね。」などというふうに。その方の話の中で私の心に最も印象深く残ったのは「人間というのは怖いものだね。最初は恐ろしかったB29の攻撃があんまり何度も来るものだから、そのうちに慣れてしまっている。自分の真上で爆弾を落とされてもあわてずゆっくりと構えている。そろそろかなと思って防空壕に入ったとたん目の前に爆弾が落ちてくるんだ。だんだん空襲がひどくなってくると、一緒に働いている仲間は早めに避難したが、私は、連絡係だったから避難できなくてね。鉄兜ひとつだけ渡されて残されるんだ。毎回、みんなともこれが最後か、助からないんだろうと思っていた。だけど、ああして防空壕に行って今も生きている。」という言葉です。何度も死と直面することの恐怖や、そのことに慣れてしまうということ。その時代を経験していない私にはとてもとても想像の出来ないものであり、同時にとても意味を持って考えさせられる言葉だったのです。

 次に下のホールでは、大きな世界地図の上に自分が立っているという不思議な感覚に陥りながら、展示物に目を通して行きました。ジョー・オダネルの写真を見ていると原爆の状況戦争の悲惨さ、当時の現実がそこには映されており、戦争は二度と繰り返してはいけないということを私に痛感させてくれました。その中の1枚にこんな説明『 -The camera is the eye of history- その日、その時、その場所は歴史に刻み込まれた。日本の2つの都市は地球上から消え去った。誰もが平和を願わずにいられない写真である』があったのですが、そのとおりだと思います。人が傷つくようなことはだめ、ずっと平和であってほしい、そして平和であり続ける努力をするべきだという気持ちが自然にわいてくるような写真でした。最後には、ホールにずらりと並んだ地図の1枚1枚を持ち主である菊地正浩さんに解説していただき、理解を深めることが出来たと思います。地図からドイツの国旗が一時期違うものになっていたことや、日本の太平洋戦争前の領土の広さなどを知り、驚きました。(特にガラパゴス諸島が、日本の領土として塗られていたのには、とてもびっくりしてしまいました。)
 また、戦前の地図には大東亜戦争と書かれているのに対し戦後は太平洋戦争と改められていることを例に「歴史は勝者によって作られるけれど、地図は真実を写す」と、教えていただいたのが印象深く、刻み込まれています。目で見て、耳で聞いて、考えたことを通し、あの時代の現実を知ることが出来たように思います。貴重な体験をしてよかったです!

 先生の本「知って楽しい地図の話」欲しくなってつい買ってしまったので後でサインしてください。お願いします。
40 ●行った日 12月20日(火)
●会場にいた時間 約90分

 最初は、なぜ日本の空襲についての地図・写真をわざわざ遠い所に行って観るのか、という気持ちだったが、行ってみて非常に充実した時間が過ごせたと思う。
 まず、私は今まで空襲での被災地といえば、東京・広島長崎(原爆)の印象が強かった。
 しかし展示してある地図やデータをみて、日本全国が空襲の被害にあっていたことが改めてわかり、驚きであった。そして、東京・大阪・神戸などより比較的小さい都市でも必ず人の多そうな栄えていそうな地域(地図において黒っぽくなって密集している地域)に空襲し(地図でその地域が被災地域として赤く塗られている)、また東京の多摩・八王子付近でも飛行場や工場に襲撃していて、ピンポイントで重要な地域を狙っている所が恐ろしく思った。
 また、ジョーオダネルの写真展にある写真は、戦後60年の特番などで見覚えのあるものばかりだった。

 このような戦争がその後起きていないのは幸せだけど、それは日本の特別な平和憲法のおかげということに繋がるとはいえないと思う。なぜかというと、見学後見学の感想を家で少し話したときに、他の国のことを知ったからだ。
 空襲は日本だけでなく、ドイツ(ドレスデンなど)やイギリス(ロンドン)でも受けていると兄に聞いて、調べて確かめた。
これらの国は、日本と戦争に対する考えは違う。ドイツはアフガニスタン復興に関与するなど国際的に軍事的な貢献もするようになったし、イギリスは今でも現役の軍事大国だ。しかし両国とも国内が荒廃するような戦争は二度と起きていないのである。
 そう考えると戦後の日本やドイツの平和の理由は、戦争の形態自体の変化の問題とも考えられるのである。
 まず、WWU以降大国同士の総力戦は起こらなくなった。
 また、技術の進歩は核兵器が現実には使われていないことを考えると、戦争の規模をむしろ小さくした。
イラクで起きている戦争はWWUとは全然違う。
 だから日本やドイツのような国の市民が大量に犠牲になるような戦争は二度と起きないようだ。
 しかし、大戦の悲劇は拉致やテロなどと形を変えて残っているともいえる。日本は拉致や東京の地下鉄テロなどが防げなかったことを考えてみると、平和とも言い切れない。だから今の憲法が平和を守ったとも言い切れない。世界中の、かつて大戦の当事者だった国は、世界大戦は二度と起こさないことには成功しているが、新しい問題を抱えている。

 今回の見学は、過去を学ぶことはできたけど、現代のことは、日々のニュースや現在の科学技術も踏まえて考えていかなければならないだろう。

(展示以外のことばかり書いてすみません)
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