「地図と写真で見る日本の空襲」展 を見て
12月レポート   1組 2組 4組 6組
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2 ●行った日 12月23日(金)
●会場にいた時間 約50分
●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと 等など
 何ともない、いつもと変わらない「日常」。それがいとも簡単に、脆く、一瞬にして崩れ去ってしまう。そんなことに恐ろしさを感じる。しかし、それが「戦争」なのだろう。
 空襲での傷跡というと、どうしても原爆に目が行きがちだ。しかし、原爆のみならず空襲の傷跡は深い。空襲による戦災地図からは、今まであまり目にしなかった、いや、気に留めていなかったのだろう、空襲の被害の大きさは、もちろん被害が小さいものと思っていたわけではないが、想像以上といった感じだった。また、米軍偵察機による日本の航空写真やターゲットワークシ−トを見て、「情報」というものが、使い方次第でいかに恐ろしい武器に変貌するかを感じた。日本の情報を知ることによって必要なものを素早く、ピンポイントで破壊していったのだろう。立体的な町が瞬く間に平面な焼け野原になってしまうことにゾッとした。
 展示されている地図や写真等の資料を見て、目をつぶれば、まぶたに浮かぶものは、空襲警報に逃げ惑う人々、爆撃機が見えたときの恐怖に引きつる顔、爆撃に焼かれる人々、建造物、悲鳴・・・・・。人間のもつ想像という力の範囲でしかないが、それは言葉に表すことのできない恐怖と悲しみが渦巻いたもののよう。そして、人々の悲しみと憎しみと、あるいは思考が停止してしまったかのような悲痛な胸のうちが苦しいほどに感じられる。しかし、実際のそれは、もっともっと深く、暗いものであったことだろう。
 今となっては「戦争」は過去のことである。繰り返してはならないものだと人々は言う。もちろん二度と繰り返してはならない。「戦争」は悲しみしか生まない。
 罪なき者が罪なき者を殺す。それは当然のように行われたこと。何を思い、何を感じて人は「戦争」をしていたのだろうか。今の僕には知る由もない。僕は「戦争」というものを知らないから・・・・・・。
 だが、「戦争」を知らない僕たち、「戦争」を知る世代が身近にいる僕たちはこれからなにを考え、何をすべきなのだろうか。
 「戦争」は、とても苦しいものだろう。とても悲しいものだろう。誰も二度と経験したくないだろう。「戦争」での傷跡は決して癒えることのない傷跡。でも、それは、癒やしてはいけない傷跡なのかもしれない。これからもその戦争の苦しみを、悲しみを後世に伝えていかなければならない。僕たち人間はその過去の惨事から目を逸らしてはならない。そして、「戦争」は二度と起こしてはならない。「戦争」の苦しみを少しでも感じ、どうして二度と起こしてはならないかを伝えていくこと。それは、「戦争」という名の恐怖に出会うことのないであろう世界に生まれ落ちた僕たちの使命なのだろう。改めてそう思う。
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4 ●行った日 12月23日
●会場にいた時間 約60分
●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと 等など

 悲惨で悲痛な地図と写真の数々。全てのことが現実に起こっていたかと思うとその現実に悪寒を覚え、その現実を忘れていく現代に安堵と危険性を感じる。
戦争を忘れていくことは安堵を人間に与える。無慈悲に無差別に死を与える戦争を忘れることができれば人間は理不尽な死から免れて大きな安心感を得るだろう。しかし人間の本質的な部分で争い、戦争は不可避なものである。いつまでも人間が虚構な安堵に浸ってい続けるならば、現代のテクノロジーもさいわいしてこの先の戦争で人間が滅亡してしまうという危険性はありえないことではない。であるから、人間は戦争を忘れることの安堵から抜け出し、戦争を見つめ、戦争に対し無関心ではなくその勃発を回避する努力をし続けなければならない。
 その厳しい現実である戦争を今回の展示で目にすることができた。空襲を受けた土地の航空写真を見ればアメリカのターゲットワークシートの正確さ、地図というものが合理性に富む兵器であること、写真では見えないが瓦礫にうもれた人々の悲痛な叫びを感じ、戦災地図やジョー・オダネル氏の写真展を見れば、空襲のむごさ、目を覆いたくなるような人々に与える影響と現実を知ることができた。
 このレポートに書いたことをいつまでも忘れないようにしたいし、世界の一人一人がこのように意識してくれることを願いたい。
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6   自分は江東区にすんでいるため、東京大空襲のときの被害の話は少しであるが聞いていた。しかし、話で少し聞いてただけなのでその被害が実際にどれぐらい悲惨で残酷なものだったかはいまいちイメージがわかなかった。
 ので、この展示会を見る機会があって良かったと思う。普段はこういう展示会などにはまったく興味を示さないので・・・。
 本当に空襲っていうものは悲惨なものだったんだなって改めて実感した。今まで以上にそのイメージを強めた。今、自分が平和に暮らしている家のすぐそばであんなにたくさんの人が死んでいたなんて正直想像はつかない。でも、地図と写真を見ると、実際に起きていたことであるとわかる。廃墟となった建物、焼け焦げたたくさんの死体・・・。やはり戦争を愚かな行為で、絶対に繰り返してはいけないものですね。といっても今もどこかで内紛などは起こっているわけで・・・。世界中が平和になるといいと思います。
7  この展示会をみて、戦争というものがいったいどういうものだったのか、アメリカという国が日本にどれだけの被害を与え、どれだけの人を苦しめたかがよくわかった。 当時の日本は国を強くすること、そして戦争を戦争をすることばかり考えていて、国民がどんな苦しい目にあってもほうっておいた。普通に考えれば大国アメリカに日本が勝てないことぐらい分かりそうなものなのに、それなのに日本は戦争をすすめた。その無理がたたって国民たちに被害が及んだ。それに加えアメリカのあのような攻撃をくらっては、国民は生きる術がない。まさに生き地獄だ。飢餓や痛みに加え、地図をも変えてしまうような爆撃。人がつくったもので人は戦争をし、人は人を傷つける。
 これからの未来では人の力を正しい方向に使い、決して間違った使い方をしないようにするべきだ。それが歴史から学ぶということだと思う。
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12  被災地の地図を見て再び原爆の威力のすごさに驚かされた。焼夷弾での被災地は空襲前と比べて建物等が崩壊していて無惨な姿になっている。しかし所々被災を免れている建物もあり広範囲にわたっての被災は免れているといえる。ところが、焼夷弾に比べて爆風等の威力の違いから建物は原爆投下後は跡形もなく消えている。しかも、局所的に被災を免れていそうな所も見当たらない。たまたま長崎の原爆の航空写真を見ているときにN先生にあったのだが、先生のお父さんが働いていたという工場も写っていた。地図からでも悲惨さがわかるものだった。
 次に米軍が空襲を行う際にとった航空写真はとても詳細であった。授業で何度か触れたが米軍の航空機とともに写っているものや爆弾投下直後の写真などもあり、米軍が戦争での資料をしっかりと保存している。このことからも米軍の余裕をうかがわせられる。ターゲットポイントを使用して空襲を行うことは、ゲーム感覚だったのではないだろうか。戦闘機の性能が高くなるにつれ、被害者の姿を直に見ることは少なくなり、その結果として原爆のような大量殺人兵器を使用してしまったのだろう。今の人々は戦争を体験したことのない人がほとんどになってきている。戦争を体験でないと戦争の本当の悲惨さはわからないであろう。しかし、今回の地図展など戦争の悲惨さを伝えていくことで戦争の抑制につながる。そういうことをしなければ、兵器の本当の恐ろしさも知らずに使用してしまうという事態が起こってしまうかもしれない。
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●行った日 12月21日
●会場にいた時間 120分
●見て感じたこと思ったこと

 空襲は、お年寄りの話や、博物館の展示物など限られた方法からしか、今日本で生きている私たちには理解するすべのないものである。それが故に、少し遠い世界の話のように感じてしまいがちである。しかし、今私の住んでいる地域や、毎日登下校の際に通っている場所が空襲にあったというのはまぎれもない事実である。この事実が、今回の地図展ではかなり明白に示されているような気がした。

 今回のこの展示会が、他の展示会と大きく異なっていた点は展示あるのが地図だけであるという点である。これはつまり、自分で地図を見て読み取らねばならないことを意味する。しかし、逆にこのちょっと面倒くさい作業が、この地図展での長所のような気がした。地図上で、自分の住んでいる場所、自分の通っている場所、自分の学校が見つかると、普通の展示会とはまた違い親近感のようなものを覚える。これはやはり、自分で探し出したその場所が、いつも見ている地図にどことなく近いものがあるからであろう。

 また、今回強く印象に残っているものに、数々の航空写真がある。特に原爆投下前と直後の写真を見比べると、あまりの変りように言葉も出なくなる。前の写真には確かに在った人が生活している息吹が全て消え去っているのである。町は全て廃墟と化し、人が生きている気配すら感じられない写真へとその姿を変えているのである。川や周囲の地形からかろうじて同じ場所だとわかるものの、そのような目印がなければ、同じ場所だとは到底思えないような変化を遂げているのである。この写真に写っていた人々は今までの生活が一瞬の後に消え去り、地獄を見るような目にあったのだというのが、よくわかる2組の写真であった。

 戦争は、今自分の立っている場所にも必ず何らかの爪あとを残しているのだ。そう感じることができただけでも今回のこの地図展に行った価値があったと思う。やはり戦争は、起こしてはいけないものである。そう改めて誓うためにも、それが残した爪あとや悲しみを、身近に感じられるような体験を積極的に経験していくべきだと感じた。
14  最初に僕がこの課題を課せられたときには、「あぁ、面白そうだな」と思いました。なぜなら、あまり興味の無いことが展示されている展覧会に行くよりは自分の興味のあること、や知っておきたいことについての展覧会に行きたいと思っていたからです。今回の課題はそのどちらでもあったのです。日本人として過去に戦争を経験してきた国の人間としてその経験は決して忘れてはならなく、そしてその実体を知っていかければならないと思います。
 しかし、僕は教科書の資料などからしかその情報を得ることはできていませんでした。なので、今回はそういう点からいっても非常に良い機会が巡ってきたと思いました。 しかしながら、実際に行ってみたらそんな冷静な感情ではいられませんでした。その戦争の「惨劇」を並べられている写真から感じ取れました。東京、大阪、広島、長崎、名古屋……数々の年の空爆の前後の写真を見ることができました。そのどれの写真の「空爆後」は建物が「消え去って」いました。写真なので破壊されている様子は実際見ることはできませんが、その表現通り建物は無くなっているのです。あれら写真の前ではほんとに言葉を失いました。
 戦争の背景や戦死者数など、世界史や日本史で学ぶ観点とは大きく違う方向から戦争を見ているような気がしました。展示されている物の中にはアメリカ兵が撮影した写真も数多くありました。日本史では長崎の原爆を落とされた理由をこのように学びます。「アメリカはソ連に日ソ中立条約を破棄させて、日本に進撃させようとしていました。そのためと、日本を降伏させるために広島に原爆を落としました。ソ連は8日に満州進撃を開始しましたが、戦争後アメリカとソ連の2大国家となると考えたアメリカはその力をソ連に見せるために長崎に原爆を落とした」と。僕はこれを聞いたときには「アメリカはなんて残酷でひどい国なんだろうと思いました。」 
 しかし、それとは対照的に、あの展覧会で写真を撮影した兵士一人一人の言葉からは戦争の悲惨さを感じている感情を感じました。沖縄戦に参戦した兵士の感想はこういうものでした。「こんな相手とは戦ったことがない。もちろん我々も軍に入ったときには国のために命を捨てる覚悟で入団したが、日本人は自分の武器が無くなって我々が洞穴から出てこいと促しても、迷うことなく手榴弾を爆発させて自殺するのだ。出てこいと呼んだアメリカ兵まで爆発に巻き込まれて死んでしまう。彼らは捕虜になるくらいなら死ぬ、と決心しているんだ。」というものだ。日本人の不屈の精神力を感じました。
 最も印象的だったのが展示されていたビデオです。映像なのでものすごくリアルでひどく衝撃をうけました。日本だけではなく、ヨーロッパの方での映像もたくさんあって…言葉がみつからないくらいです。悲惨でした。友達と行ったのですが4人ともビデオのあとではしばらく静かでした。それくらい戦争の恐ろしさを感じることができました。
 今回の展示会では戦争の悲惨さや恐ろしさを本当に強く感じることができたのが一番の収穫だったと思うことができます。やはり戦争は嫌ですね。
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19 ● 行った日 12月19日(火)
● 会場にいた時間 約100分
● 見て感じたこと、思ったこと、考えたこと 等など

 今から60年前、日本では歴史上初といえる他国からの侵略とも言える空襲があった。正しい情報を得られていない国民は突然の奇襲に大いに困惑し逃げ回っただろう。(予め米軍からビラをまかれていたこともあったが)。そんな状況が生々しく紹介されている。それが今回の「地図と写真で見る日本の空襲展」であった。また、「豊川海軍工廠展」も開かれていた。

 まず「豊川海軍工廠展」のことから書きたいと思う。愛知県豊川市には海軍の飛行機や艦隊などで装備する機銃とその弾丸の主力生産工場である豊川海軍工廠があった。そこでは、動員学徒6000名を含む5万人以上が働いていた。そこでは24時間労働で、夜勤もあった。当然学徒の生徒たちも働かされていた。睡眠時間も少ない中での夜勤はつらく、職員の目を盗み居眠りをしていた。それも、この仕事はお国のためと言われ労働していた。「お国のため」と言われ、人を殺めるための道具を作らされていたと考えると、あまりにも残酷なことだと思う。殺人は罪である、しかし、戦時中では罪とならず、その殺人兵器を製造していたのは罪も無い児童であったと考えると、あまりにも国家は卑劣だと思えた。
 昭和20年8月7日、豊川海軍工廠では運命の日が訪れた。豊川海軍工廠大空襲。偵察飛行などによる米の綿密な空襲計画(この当時、飛行にきたB29を「お客さん」と呼んでいた、また他は空襲を受けているのに豊川には気付いていないのではという噂があった)により遂行されたMission317。
 第58、73、313、314隊によるB29が124機、P51が45機による大空襲。10時13分から10時39分の26分間において、500ポンド爆弾3256発が投下された。退避命令が遅れたこと、工廠の構造上脱出する場所が限られていたという、事実が重なり犠牲者が数多く出た。また、役の立たない防空壕、蛸壺とよばれた竪穴、空までとどかない機関銃、そういった無防備な点も犠牲者増加につながった。
 なぜ、空襲されないと固く信じて避難経路を作らなかったのか、防空壕をしっかり整備しなかったのか、そうすれば罪のない人がもっと救われたのではないかという思いが込み上げてきた。いくらか、工廠の転移は行われたが、それもろくに行われず、疎開の意味を成していなかった。そういったことをしっかりと行っていれば…と思えた。

 展示物の中に、学徒の遺言書があったのに気付いただろうか。そこには罪も理由もないのに親より先に死ぬ自分を不幸者として自責していた。それも、自分が死ぬことを予見して仏壇の裏に入れておかれてあったという。なぜ若い世代は現状を把握しているのに、世間は何もしなかったのだろうという考えをもった。発見された2,385柱氏名確認ができたのは228柱だったという。(ほとんどが白骨化していて、衣服や帽子などで判断された)それまで空襲から発見された遺体は仮埋葬地で眠っていたが、昭和26年6月遺族の強い願いもあり、再び光を見ることとなった。6年もの間遺族はどんな思いで待っていたのであろう。我が子と再会することができず、どれだけもう一度だけ会いたいと願っていたのであろうか。そう思うと胸がいたい。決して、工廠などで働かせようと思っていなかっただろう両親、きっと家に帰ってくると思い、長いこと家で待っていただろう。その想いを裏切る形で帰ってきたのは死亡の通知。その時、その子の親はどんな思いだったのか。国や戦争を憎むことも忘れ、涙を流しつづけたのではないか。仮埋葬地での再会で、自分の子の面影もない姿を見たどれだけ悲しんだのだろうか。そんな光景が、ふと目を閉じれば目の前に浮かんできそうなぐらい生々しく様々な資料が展示されていた。

 「日本の空襲展」の方では、今から半世紀以上前の地図が配置されていて、現在の地形との比較をしてみることが興味をひき、長い間一緒に行った友達と話題にすることができた。空襲を受ける前と後の写真ではあまりにも被害の変化に驚きを覚えた。中には、爆弾の落下痕が地図上に広がっていたり、一面焼け野原に変わっていたりと変化の激しさに言葉を失いかけた。
 しかし、よく見ると、歴史的建造物の被害はあまりみられない。理由はいくつか考えられるだろう。巨大建築物のため火はあまり燃え移らなかった、もっとも有力な説が米軍による配慮(皇居に落とさないのは戦略上であったという話もある)であろう、そういったことが考えられた。
 展示会場にはターゲットワークシートと言う地図が置いてあった。米軍が収集した情報(写真、測量)をもとに作成された地図で、空襲直後の破壊された建造物を黒い色で表し、一目で被害規模を知ることができた。アメリカは情報を収集し綿密に作戦を練り攻撃をしていたが、日本はたかをくくり、アメリカの情報を詳しく得ようとしていなかった。このことから、太平洋戦争は日米における情報戦だと考えられる。つまり情報が爆弾や銃になっているのである。
 紙切れ1枚でも、それには人を殺す能力があるということをこの時思った。地図もおなじである。そこに隠されているものを読み取れば、それは大きな武器であると言える。 「地図がわかれば、社会がわかる。」とはいえないが、「地図がわかれば、戦局が変わる」と言えるだろう。現代社会における情報の氾濫が人類にとって有益なのかどうか、私は思ってしまった。一歩間違えれば、戦争どころか、人類の絶滅に繋がりかねないと思った。地図で日本も情報操作をしたことを今回改めて認識することができた。工廠、飛行場などの重要施設は水田や荒地などで表現されている。授業でもやったことであったので、そのことがわかるとなお嬉しかった。しかし、米軍にすぐに見破られてしまったが。(米自らによる撮影などにより)展示会場にあった表を見て、又そこに表記されていたHPをみると、より一層日本の被害がわかる。(http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/ http://www.takedive.net/sbs/index.shtml )
 このことは、今を生きる現代人の私たちにとってあまり実感のわかないものである。しかし、このことは実際に起きたこと。目をそむけてはいけないものである。そう考えて、これらを見てみるとより一層胸が痛んだ。ジョー・オダネル氏の写真を見ると、そこには原爆直後の生々しい現場が写っていた。どれも目を覆いたくなるような物だった。たった1プッシュされて投下された爆弾でどれだけの被害が出たのだろうか。そのスイッチを押した米兵は戦後その現状を知り、心を痛めて、自問をしつづけたと聞いたことがある。戦争は加害者、被害者、どちらもが被害者なのだということを思った。歴史の流れをおった世界地図を見ると、徐々に日本の領土が広がり、国旗も満州国の国旗があったり、独逸の国旗がナチの旗になったりと歴史的変化がしっかり捉えられていることがわかった。

 今回の展示会に行って思ったことは、この出来事を忘れ去ってはいけないということだ。現代社会において、戦争とはゲームの中、ニュースの中でしかわからない。特に、ゲームの中では人は何人も簡単に死に、ボタンを押せば爆弾やミサイルが飛び出し、建造物をあっという間に破壊できる。そこに何も感情を流入させる必要はない。ただ楽しむためだけにある。しかし、現実世界ではどうであろうか。そんなゲームみたいな感覚の世界ではない。人の感情が渦巻き、尊い命が失われていくのである。  今の世の中は戦争という存在を軽くみすぎているのではないだろうか。そういった中で今回の展示会はとてもありがたいものであった。戦争の重大さを改めて知り、少しでもつらさを知ろうとした。もっと、戦争について世間の若年層が知り、後世に伝えていくべきだと思う。原爆のあの写真以上のことが、今の核兵器では起こってしまう。それを防ぐためにも、地球から核兵器をなくしていくべきだと思う。
 某国のように「核家族」と言われる、核保有国の仲間入りになる国を無くしていかなければならないのではないか。そういったことに努めていくのが、将来を担う私たちの責務ではないだろうか。

 世界地図の上を歩いたことを、私は「世界の縮小化」ととってみた。移動時間が短くなり、世界は小さくなってきている。情報が直ぐ手に入り、さまざまなことを知れるようになった今、これから世界はどうなっていくのだろうか。ちょっとしたことだが、滅多に見ることのない昔の地図を間近で見れて嬉しかった。最後に、今回このような機会を与えてくれた先生に感謝したい。
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22 ●行った日→12月23日(金)
●会場にいた時間→60分
●感想

 最も印象に残ったのは、上野から両国までの航空写真である。降り積もった雪で市街が 全体的に白っぽく映っている中、空襲で焼けた地区だけがまるで切り抜いたように黒く なっている。その白と黒の鮮烈なコントラストが爆撃の無残さを物語っているように感じ た。
 またジョー・オダネルの写真の中では、男の頭像の後ろに爆撃で破壊された建造物が 映っている写真が心に焼き付いてる。男の頭像は空爆の一部始終を見たのだろう。その男 の目は心なしか悲しみを浮かべているように思える。その濁った瞳にはどんな悲惨な状況 が映っていたのだろうか。そんなことを考え、しばらく私は写真の前で立ち止まってし まった。
 日本の資料には地図が多くアメリカの資料には写真が多い。当時の国力の差を感じた。 戦争のために、一体どれだけの人々が命を落したのか。日本はなぜ早急に降伏しなかった のか。強い憤りを感じた。このようなことは2度と繰り返してはならないと思うと同時 に、今世界で起こっている戦争が1日も早く終わるようにと願わずにはいられなかった。
 今回の展覧会で地図や写真を見て、今までぼんやりとしていたイメージでしかなかった 戦争が具体的になった。これから戦争体験者は少なくなっていく。私達はこのような資料 で戦争の悲惨さを知り、伝えていかなければならないと思った。
23  一番印象に残ったのは、やはり空襲の前後で撮られた写真です。町がすっぽりなくなっているその情景に愕然としてしまいました。こんなことが実際起こったなんて信じたくありませんでした。また、同時にその写真を撮ったアメリカ兵の心境も気になりました。戦争中だからただ義務としてシャッターを押したのだろうけど、上空から馬鹿にされていたように感じられてなりません。
  地図は・・・自分の住んでいる家・住んでいた家を探すのに夢中になってしまい、本当のところあまり覚えていません。日本のもので空襲された場所に大雑把に印を付けた地図がありましたが、その地図はその後なんの役に立ったんだろうと疑問に思いました。色塗りをしているばかりでは先へ進まないんじゃないかという感想を持ちました。その地図はぱっと見、戦略を練るのに役立ったというよりは、敗北を認めたという感じがしたからです。真実のほどは知りませんが。 最後のスペースにあった大きい世界地図には感激しました。友達とプチ世界旅行を楽しみました(笑)。全世界が載っていなかったのが残念です。
 また白黒写真も印象的でした。写真を見るのは好きなので、一対一の会話を味わいました。写真を見ると、私たちは経験したことのない戦争がリアルになります。新たな事実を教わりました。
 エントランスで放映されていた二次大戦のビデオをじっくり見た後、私たちは帰路につきました。
24  会場には古い地図がたくさん展示されていた。不謹慎だけれど、初め自分や友達 の家を地図の中から探すことを楽しんでしまった。60年前の地図なんてあまり見 ることがないので興味をそそられたし、自分が住んでいたところはどんなところ だったんだろうと思って家を探した。自分の家がある場所はすぐに見つかった。 60年前の町は、なんら今と変わりなかった。池や神社や寺はまったく同じ名前で 同じ場所にあった。 私の家がある辺り一帯には赤い斜線が引かれていた。空襲のときに焼けてしまっ たということは知っていたけれど、地図でみるともっと現実味を帯びていて胸に 迫るものがあった。 そういえば小学生のときに学校の近所に住むおばあさんから 空襲のお話を伺ったことがあったと思い出した。「この辺一帯は焼け野原になり ました・・」。あぁ本当にそのとおりなのだ、と認識させられた。地図は写真以 上に多くを語っていた。残酷なほどはっきり明確に、あかい斜線だけで示されて いた。 空襲で亡くなった人を埋葬した寺院の地図もあった。埋葬した人数が円グラフで かかれており、私の家の近くのお寺にも多くの人が埋葬されていることがわかっ た。 空襲の炎と自分のまちを重ねられない。焼けたということはやはり信じられな い。地図を見てそう思った。 しかし、信じられない事実を次の世代に伝えていかなければならないという義務 を私たちも大人になったら負うことになると自覚した。
 日本国憲法にもあるよう に、戦争による惨禍を二度と生まないためにも、心にとめておきたいと思う。
25  地域ごとの被災した様子を表した地図を見ると、とても広い範囲、多くの地域が空襲により焼き尽くされたことがわかった。それによると、私の家も5月25日の空襲では完全に焼かれてしまっていたようだ。現在では当時どのようなありさまであったのか、全く想像もできないが、自分の今いるこの場所も、そのとき真っ赤な火に包まれていたのだ、と思うと、心が痛み、戦争を自分の問題として考えなければならない、という気持ちが湧いてくる。
 
 また、展示場では実際に戦争をその目で見た、という方のお話を聞くことができた。その方は中島飛行機武蔵製作所で零戦を作っておられたため、何度も米軍から狙われたそうだ。それを聞き、私はなぜ無事でいられたのだろう、と疑問に思ったが、その後次のようなことを話してくださった。映画などでは飛行機からバラバラといくつもの爆弾を落としている映像があるが、あれはめったに目的のものには当たらない。落とされた爆弾は、地上に着くまでには一つと一つの間隔が200mほど離れてしまうため、中島飛行機武蔵製作所にも当たることはなかったそうだ。

 また、そのように度々爆弾を落とされるうちに、働いている方々も空襲警報が出たくらいでは何事もなかったかのように作業を続けるようになり、製作所から35°あたりのところで米軍の飛行機が爆弾を落としたのを見てから、さあ防空壕へ行くか、というように慣れてしまったそうだ。小さい地震が起こっただけでも机の下に潜る私には信じられない話だった。
 こうして何とかしのいでいた中島飛行機武蔵製作所もついには爆弾が当たってしまったそうで、そのときの写真も残っていた。そのときその方は製作所から離れたところにいたため、命を失わずにすんだということだ。戦争はこのように一瞬が生死を分けるのだな、と痛感した。
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27 「地図で見る日本の空襲」展を見て
●行った日
12月20日(火)
●会場にいた時間
約60分
●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと 等など
 私は戦争のあった時代には生まれていなかったし、それを経験したことも無いから、そういう事を知るには、それを経験した方に話を聞いたり、こういう展示をしているところへ行く必要がある。過去にあった悲劇をどうして振り返る必要があるのか。それを経験した人々にとっても思い出すには辛いことなのではないか。「戦争がどういうものだったのかを知るのは大切」と聞かされているから、そういうことは必要なんだ、と思うのと同時に私はそれがなぜ必要なのか、いまいち納得がいかないような気がしていた。

 会場には多くの地図や写真、資料があったし、そういうものを見るだけでもいかに多くの地域が空爆され、いかに多くの家が、家族が被害を受けたかが分かった。だけど、どうしても自分とはそんなに関係のないこと、そんな風に思ってしまう自分がいた。それでも来たからにはなるべく多くの事を学ぼう、多くの事を目に焼きつけようと見ていた。その中で、自分にとってもとてもショックな写真があった。それは空襲で焼けてしまった建物の残骸の中、亡くなってしまった幼い弟をおんぶし、直立不動で立っている男の子の写真だった。今まで崩れ落ちた建物の写真を見てもそれほど感じることが無かったのだが、それだけは違った。崩れた建物には人がいたのだ。自分よりずっと小さい子供達が親や兄弟を失う悲しみを味わったのだ。急にそんな風に思えて心が痛くなった。

 やはり、どんな被害があったのかを知るには重要である。これほど多くの人を悲しみのどん底に突き落としてしまうことをもう起こしてはいけないから。どんなに小さな、字の読めない子供にだって大切な人を失う痛みはある。だから戦争はいけないのだ、そう思った。私と同じようにこの展示で考えが変わった人がいるのなら、やはり過去のことを理解するのは必要なこと、それを伝えていく活動も重要なのだろう。

 展示の中には日本のものとアメリカのものがあった。日本のものは全部が図で、アメリカのものはほとんどが写真だった。当時の国の力の差のようなものを感じた。アメリカは写真を見て、念入りに計画を立てて爆弾を落としたのだろうなぁと思った。日本人は何も知らないで爆撃されるしかなかったのかな?と思うとなんとも言えない気持ちになる。爆弾を落とす方だって良い気持ちではないと思う。自分がボタンをひとつ押すだけで多くの人の命が奪われ、それによってまた多くの人が悲しむのだから。攻撃する方もされる方もこんなに辛いのに、どうして戦争が無くならないのだろう。私がこんなに色々なモノに囲まれ、暖かい部屋でこのレポートを書いている瞬間にも戦争に苦しめられている人が増えていってるのだろう。

 どうしたらそれが無くなるのか、考えてみるが分からない。私一人じゃどうにもならないのだろうか?でもそれを考えている人はいっぱいいる。だから、そういう活動に参加するべきだ。1人で考えているだけでは何もしていないのと同じだから。
28 今回この「地図と写真で見る日本の空襲」展を見て感じたのは、やはり戦争の残酷さ、恐ろしさでした。
多くの戦災地図や航空写真が被害の大きさを物語っていて、それは言葉でどんなに詳しく伝えられるのよりも明らかで、私の心に深く突き刺さってきました。
戦争の恐ろしさについてはよく知っていましたが、体感したことのない私にはいまいち実感できないものでした。ですが、今回、軍隊手帳や日記など、直接視覚的に戦争の被害を表すものではありませんが、当時の戦争の実態を示す実物資料を見たことによって、今まで以上に戦争時の緊張や恐怖感をリアルに感じることが出来ました。

また、この展示会にはアメリカ人のカメラマンや米軍偵察機による戦争中、終戦直後の写真が多数展示されていましたが、私は彼らがどのような思いでカメラのシャッターをきっていたのか、そして現在彼らがこのような写真を見た時、どのような感情を抱くのか、とても知りたいと思います。哀しいのは、人間が、同じ人間を殺すために人間の手で殺人兵器を作り出してしまったこと。相手を滅ぼすことだけを考えて人の命を奪うこと。

戦争は政治の最終手段としてなくてはならないとも言われていますが、私は二度と起こることのないように願っています。日本の原爆による被害を見ることで、世界中の人々がその恐ろしさを知り、戦争に歯止めをかけることができればいいと、改めてかみしめました。
(期日までに届いていましたが、掲載が遅れました。ごめんなさい)
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30 ●行った日 12月21日 (水)
●会場に居た時間 約45分

 「日本中が焼け野原となった」「街全体が火に包まれた」 このような表現が小説や教科書に良く見られる。確かに日本がアメリカ軍の空襲によって受けた被害は大きかっただろうが、私はそれらを、どうせ被害妄想たっぷりの大げさな表現だろう、と思っていた。戦争は相手がなければ出来ない。そして、どちらかの方が一方的に悪いという事は、勝敗に拘らず有り得ない。しかし教科書だとか参考書だとかそういうものは、自国に都合の悪い事には触れなかったり、遠まわしになったりするものだし、反対に被害を被った時は大げさに書いたりする。しかし、空襲展を見て、それらの表現がちっとも大げさな言い方ではないと解り、被害妄想などと決め付けていた自分を恥ずかしく思った。「火に包まれる」とはああいうことなのだ。東京の地図の中で空襲の被害を受けていないところを捜す方が難しかった。どこもかしこもが真赤に染まり、一夜明ければ一転してモノクロの世界になっている、東京の街。毎日、神様だって把握しきれないだろうほど沢山の人々が行き交うカラフルなこの街が60年前はそんな状態であったことを、今の東京の様子から連想できる人がいるだろうか。
 東京の夜のネオンは、美しい。あの明かりの数だけの違った生活が、この街にはある。それらを一瞬で消してしまうような事があってはならない。日本が戦争をしない国になって、本当に良かった。ニューヨークのテロの時は、アメリカ中がパニックに陥った。何時自分の街が襲われるのかわからなくて、誰が敵か味方かもわからず不安で、毎日がそわそわと落ち着かなかった。それなのに、なぜイラク戦争を始めたのだろう。

 “Remember Pearl Harbor”。この言葉は、60年以上たった今でも、アメリカ人の心の中にこびりついて剥れない。なぜ忘れてはならないのか。不公平であった事が悔しかったから? 違う。数え切れない数の人々が殺されて、それより多くの人々が悲しみの涙を流したからだ。二度とあってはならないのは、そういった類の悲しみの涙を流す事であるはずだ。でも、今の彼らの中にそういう気持ちを忘れていない人がどれだけ居るだろう。悔しさとか、復讐心とか、そういった感情を「忘れてはならない」と解釈している人が多いから、イラク戦争を始められたのではないだろうか。今まで、独立戦争と911のテロ以外で、アメリカ本土は攻撃された事がない。多くのアメリカ大陸に住む人々は、戦争の被害の恐ろしさに対して無知である。日本人が戦争の被害に対して無知になれば、日本はまた戦争をする国になるかも知れない。私達が受けた被害について知り、忘れずに、語り継いでいく事。そして、それを世界中に広めていけたら、あの体育館いっぱいにしかれた世界地図全部を、平和一色に染め上げる事ができればいいのに。
31 ●見て感じたこと、思ったこと、考えたこと
  
 毎年8月になると戦争についての特番やドラマが絶えず流れます。正直、毎度毎度同じような内容に飽きがきていました。戦争で愛する人と離れ離れになってしまい、そこから家族愛が生まれ、家族の大事さ、戦争の残酷さを訴える。それを見て感動もするし自分たちは幸せだと感じるが、そんな感情はすぐに薄れてしまいます。また、戦争というものから連想するキーワードとしても「原爆」「広島」「長崎」「沖縄」など私たちにあまり馴染みのないものばかりで、そこで生きていた人々に同情はするがあまり関心は持てませんでした。
 そういう考えのまま展示を見に行きました。まず1番最初の部屋では東京を中心とする関東の戦災の状況がわかる地図が何枚もありました。それらの地図は私たちの身近な土地も写してあり、自分の知っている土地を探しながらその土地の戦時中の様子を考えることができました。また、同室には空襲前と空襲後の航空写真が飾ってあり、空襲前にはあったものが空襲によって何もかもがなくなり、ただの荒地になっていました。最後の部屋は体育館になっていていろいろな地方の航空写真や戦災地図、そしてジョー・オダネルさんの写真がおいてありました。彼の写真は戦時中の人々の様子を事細かく記してあり、今の私たちになにかを訴えているような気がします。
 戦争は恐ろしいものです。人が人を殺し、ものを得る…矛盾していると思いませんか?今回、写真と地図から改めて戦争について考えさせられました。同情から関心へ一歩近づいたような気がします。
32  正直、私が最初に被害状況を見た時、呆然としました。本当に辺り1面何もなく、煙で覆われていまさち。地図と写真を比較してみると学校以外は無と化していたのです。今までテレビ等でも見た事はありました。しかし、実際の写真を見ると深い悲しみと悔しさを感じました。私たち祖先が苦しんでいる間、これほど沢山の写真を残していたのです。被害状況の確認をしていたのだとは思います。しかし、私だったらこれほどまでに非道なものを間近で見たら写真など撮れません!そして、きっと自分達の勝利のためにこのような行為をして良いのかと思うと思います。
 体育館(?)の大地図の壁に人々の写真が貼ってありました。写真には苦痛が一生残ります。その苦痛をかえられる事はできません。しかし、私たちにはこれから同じことが起こらないようにする事が出来ます。まだ白紙の写真に人々の平和を撮れる未来になれば良いなと思いました。
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34  世界の歴史としても名を刻んだ辛い戦争の傷跡を目の当たりにしました。街の拡大写真は生々しく、 空襲の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。
 私は空襲に関しての知識がほとんどないので、それらの写真を見て感じられたのはただただ恐ろしいということでした。
 印象深く残っているのは、各地の、空襲前後の写真でした。空襲後の写真では街が焼け野原と化していて、山でさえも形が変わっ ていて(上から撮影した写真なので実際には山でなくなっていたかもしれません)、空襲の爆撃の激 しさが伝わってきました。空襲前の街は平和で特に変わっていることもなく、空襲当日も人々はいつ もと同じような朝を迎えていたのだと思うと、胸が痛みました。
 空襲の様子を物語る様々な写真を見ていく中で、爆弾をひとつ簡単に落として数え切れないほどの命を一瞬にして消してしまうことの恐 ろしさ・悲しみと同時に怒りも覚えました。
 日本人として、地球に生きる一人の人間として、これか らの世界を平和に生きていくためにも辛い過去の事実を知っていくことは欠かせないことだと思うの で、今回の見学は意味深いものでした。
 最後に世界地図の上を歩いたのが楽しかったです。
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38  12月レポート 私達が生まれるよりも前のことなので、実感などなく、「へぇそうなんだ」程度にしか思っていなかったし、大して興味もありませんでした。同じことでも文章で表現するのと図で表現するのは違い、説明はなくても図の方がその時の様子が映像として思い浮かび、空襲の凄まじさを物語っていました。すべてがリアルで、思わず目をふさぎたくなるような写真も多々ありました。 1階の世界地図は大きさに驚きました。上を歩いてみて、改めて世界の広さを気づかされました。一部ない地域もあったので少し残念でしたが。
 昔に東京の巨大地図を作ろうとした話を思い出し、地球の丸さは表現できないからこの地図も誤差があるんだろうなぁとつい考えてしまいます。
  一番印象に残ったのは入り口のビデオです。第二次世界大戦中のドイツの様子をまとめたNHKの前に放送したものですが、実際の映像も使われていて驚きました。アンネ・フランクの漫画の伝記でヒトラーについて読んだことはありましたが、絵そのものでした。あんなに残酷なことをしていたなんて信じがたいですが。
 もう2度とこのようなことが起こらないことを願いたいです。
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40 ●行った日:12月20日(火)
●会場にいた時間:約75分

 普通戦争関連の資料館に行くと写真や物など、見て一瞬で状況がわかるものが多いが、地図だとある程度自分で読み取らなくてはいけない。この作業は大変だったが、時間をかけて隅々まで見ると、様々な新たな発見もできて、強く印象に残っている。

 関東地方の被災図では東京湾を中心に、東は隅田川、西(南)は多摩川の辺りまでほとんどの場所が何らかの形で空襲にあっていた。その辺りでは被災してない所の方がむしろ珍しいくらいで広範囲にわたって被災していないのは皇居くらいのものであった。やはりアメリカの意図は日本の中枢である東京を麻痺させること、東京湾岸に多数あった軍事施設を破壊し、日本の軍事力を低下させることにあったのだと思う。

 しかし、空襲後の写真を見てみると、浅草の東本願寺や旧両国国技館については、その周辺は焼け野原なのに、それ自体は無傷であった。これは、関西地方の被災図を見た時、京都や奈良がほとんど空襲されなかったのと同じように、アメリカ軍による配慮だったのだと思う。

 地図の中では空襲分布図はもちろんだが、仮埋葬地と慰霊碑の分布図も興味深かった。地図の縮尺は小さいのに、その地図は仮埋葬地を示す赤いシールでいっぱいだった。「死者が何人」と聞いただけでは漠然としていてわからなかったが、この分布図を見るとその被害の大きさがわかった。また慰霊碑もあちこちにたてられているというのは、それだけ身近にいる大切な人を失った人が多かったのだろう。

 見た写真の中で最も印象に残っているのは広島の原爆の写真だ。原爆投下の直前と直後の写真が並べてあったが、たった一発の爆弾で立体的だった町がほとんど平面になってしまっていたのは衝撃的だった。人工的な物はほぼ全て破壊され、変わらないのは川くらいのものであった。

 当時でさえ一つの町を壊滅させてしまう威力を持っていた原子爆弾が今、世界のどこかに投下されたらどうなるだろうか?おそらく被害は「都市」に留まらず、地域、国単位になるだろう。現在世界各国がNPTに基づき、核の拡散を防止しようとしていることの重要さを改めて理解できた。

 最後、出口の手前で第2次世界大戦当時の新聞を見た。様々な記事があったが、一面全部が戦争の話題でぞっとすると同時に少し悲しくなった。今現在の新聞を見てみると明るい話題も多いが、未だに地域紛争は後を絶たない。太平洋戦争の悲劇を繰り返さないためにも、これからの世の中は「歴史は繰り返す」ではなく「歴史から学ぶ」になっていって欲しいと思った。
41 ● 行った日 12月21日(水)
● 会場にいた時間 約45分
● 見て感じたこと、思ったこと、考えたこと 等

 展示場に入ってすぐの東京の各地域の空襲の被害の程度の地図で、私が住んでいる地域がかなり被害を受けたということを知ってとても悲しかったです。また、空襲前と空襲後を比較している写真を見て、その違いにとても驚きました。ただ真っ黒いだけで、今栄えている町も約60年前には焼け跡が残るだけの町だと思うと、本当に戦争は怖いなと思いました。
 下の階の写真で一番印象に残ったのは、幼い男の子が、亡くなったと思われる妹をおぶってじっと姿勢正しく立っている写真です。この写真は以前、中学の公民の授業で見たビデオで取り上げられていて、この写真を撮影したアメリカ人の男の人がその男の子を今でも探している、という内容でした。まだ幼いのに、家族を失った悲しみ辛さを必死でこらえているように思えるその姿はやはりとても心を打たれました。
 この展示を見て強く感じたことは、もうこのような戦争を今の私達が二度と起こしてはいけないということです。また同時に、約60年前にこのような悲惨な戦争があり、多くの犠牲者が出たことを忘れてはいけなくて、ずっと語り継いでいかなくてはならないと思いました。たくさんのものを見て、考えることができたので見に行ってとても良かったと思いました。
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